「楞厳寺」の版間の差分
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| − | + | 9号線から県道32号温泉津川本線に入ると間もなく、道沿いの山側に楞厳寺があります。寺のすぐ裏山には不言城跡があり、墓所から城跡へ登山道が続いています。 | |
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| + | 元は法相宗でしたが、弘仁五年(814)弘法大師諸国巡錫のおり、真言宗に改宗したと伝えられています。延応元年(1239)知見上人が再興されたという古刹です。 | ||
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| + | 十六世紀前半、福光城城主福光氏がこの地を治めており、楞厳寺は福光氏の祈願寺でしたが、永禄二年(1559)毛利氏が川本温湯城攻めにて手柄をあげた吉川経安に福光領を与え、福光城(不言城)は吉川氏の居城となりました。 | ||
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| + | 天正九年(1581)、毛利元春から鳥取城の守備を任された十代目経家は羽柴秀吉の激しい城攻めにあい、家臣と領民を救うために自刃しました。楞厳寺には、吉川経家慰霊供養のための宝篋印塔が建てられています。慶長六年(1601)関ケ原の戦い後、吉川経実は本家吉川家の家老となり岩国に移ったため、福光城は廃城となりました。 | ||
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| + | 江戸時代、楞厳寺住職宥全上人の指導により、石工坪内平七一門が石見銀山の五百羅漢像を作成、25年の歳月をかけて完成しました。寺には平七一門の墓があり平七作大日如来があります。また、周辺4ヵ寺を巡る山道に配置していた四国八十八ヵ所霊場の石仏のうち、1番から28番までが祀ってあります。周辺には、福光石の産地であり信仰深い土地柄もあって、不言城の表登山口の「谷山の石仏」など石像が数多くあるようです。 | ||
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| + | 明治六年(1873)に学制が発布され、本堂を小学校として開校しました。現本堂は明治四十三年(1910)再建され、平成二十七年(2015)に修復されています。 | ||
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== 動画 == | == 動画 == | ||
2026年2月13日 (金) 08:29時点における最新版
| 石見銀山領33ヵ寺 27番札所 楞厳寺 | |
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| 山号 | 金剛山 |
| 寺号 | 楞厳寺(りょうごんじ) |
| 宗旨 | 真言宗 |
| 所在地 | 島根県大田市温泉津町福光ハ67 |
| 観音 | 聖観音(本尊) |
| 御詠歌 | 楞厳(りょうごん)の 御法(みのり)の月の あかけれハ くらき闇路ハ 名のミなりけり |
| スタンプ設置場所 | 本堂横玄関前 |
| 地形・地質 | 鼻ぐり岩 |
| 備考 | 石見国観音霊場 32番札所 |
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地図を読み込み中... | |
9号線から県道32号温泉津川本線に入ると間もなく、道沿いの山側に楞厳寺があります。寺のすぐ裏山には不言城跡があり、墓所から城跡へ登山道が続いています。
元は法相宗でしたが、弘仁五年(814)弘法大師諸国巡錫のおり、真言宗に改宗したと伝えられています。延応元年(1239)知見上人が再興されたという古刹です。
十六世紀前半、福光城城主福光氏がこの地を治めており、楞厳寺は福光氏の祈願寺でしたが、永禄二年(1559)毛利氏が川本温湯城攻めにて手柄をあげた吉川経安に福光領を与え、福光城(不言城)は吉川氏の居城となりました。
天正九年(1581)、毛利元春から鳥取城の守備を任された十代目経家は羽柴秀吉の激しい城攻めにあい、家臣と領民を救うために自刃しました。楞厳寺には、吉川経家慰霊供養のための宝篋印塔が建てられています。慶長六年(1601)関ケ原の戦い後、吉川経実は本家吉川家の家老となり岩国に移ったため、福光城は廃城となりました。
江戸時代、楞厳寺住職宥全上人の指導により、石工坪内平七一門が石見銀山の五百羅漢像を作成、25年の歳月をかけて完成しました。寺には平七一門の墓があり平七作大日如来があります。また、周辺4ヵ寺を巡る山道に配置していた四国八十八ヵ所霊場の石仏のうち、1番から28番までが祀ってあります。周辺には、福光石の産地であり信仰深い土地柄もあって、不言城の表登山口の「谷山の石仏」など石像が数多くあるようです。
明治六年(1873)に学制が発布され、本堂を小学校として開校しました。現本堂は明治四十三年(1910)再建され、平成二十七年(2015)に修復されています。
動画[編集]
画像ギャラリー[編集]
脚註[編集]