「長福寺」の版間の差分

提供:石見銀山領33ヵ寺巡り
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長福寺の観音堂は、もとは妙泉庵といい、長福寺と上河内との間の山際にありましたが、慶安2年(1649)に境内に移され、寛文元年(1661)に堂宇が建てられました。その後、石見銀山領の三十三所巡礼が成立した元禄6年(1693)3月に改築されました。<ref>『[[出版物#.E3.80.8E.E7.9F.B3.E8.A6.8B.E9.8A.80.E5.B1.B1.E9.A0.98.E4.B8.89.E5.8D.81.E4.B8.89.E3.82.AB.E6.89.80.E5.B7.A1.E3.82.8A.E3.80.8F|石見銀山領三十三ヵ所巡り]]』(桜江古文書を現代に活かす会、2019年)より転載。</ref>
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 円光寺から9号線沿いに約5km歩くと島根農業大学校のある高台を越えたところに大きな本堂の赤瓦が見えます。2018年の島根県西部地震での大きな被害の後、多くの支援により復興を果たし美しい天井絵が描かれました。本堂入り口には毛利家の家紋がついた大数珠があり、参拝の際に数珠を回して祈願することができます。
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 天文九年(1540)、三休上人による創建と言い伝えられています。三休上人は山中村(現富山町)の重蔵山城主、富永山城守本保公の三男でした。毛利元就公と歴史的な出会いをしたと言われています。天文十二年(1542)、元就は、出雲での負け戦の帰りに立ち寄った寺で出会った三休上人から「やがては中国の大将に成り給うべし」と告げられ、敵の矢が身体にあたらない「矢違いのお守り」を贈られました。その版木は現在でも大切に保管されており非公開となっています。25年後、尼子氏を屈服させた帰り道に三休上人と再開し、元就は記念とお礼をこめて着ていた陣羽織を贈ったと言われます。この陣羽織は法衣に仕立て直され、福田衣として現在も寺宝となっています。
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 その他、大田市の文化財に指定されている「腹籠もり地蔵尊」は、地蔵尊の中に小さなお地蔵様が入っており、安産祈願の仏様です。また、明治から昭和時代の日本画家西晴雲の昭和33年頃の作品である襖絵も見事です。
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 寛永元年(1789)に14代目住職によって書かれた「観音堂由来記」には、「元禄六年(1693)に堂が建立され、石見銀山領三十三ヵ所の巡礼札所を初めて置きなさった。」と書かれています。
  
 
== 動画 ==
 
== 動画 ==
※この動画は'''ダミー'''です。
 
  
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== 画像ギャラリー ==
 
== 画像ギャラリー ==
  
 
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12長福寺1.jpg|キャプション
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1201_12番長福寺.jpg|長福寺
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12長福寺L1010887.jpg|キャプション
 
 
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2026年2月13日 (金) 13:14時点における最新版

石見銀山領33ヵ寺 12番札所
長福寺
12長福寺1.jpg
山号 寿智山
寺号 長福寺(ちょうふくじ)
宗旨 浄土宗
所在地 島根県大田市波根町706
観音 聖観音
御詠歌 寿(ことぶき)を 知る山寺の はなの香(か)ハ 都に増(ま)さる とこなつの春
スタンプ設置場所 本堂前
URL http://www.chofuku-ji.jp/

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 円光寺から9号線沿いに約5km歩くと島根農業大学校のある高台を越えたところに大きな本堂の赤瓦が見えます。2018年の島根県西部地震での大きな被害の後、多くの支援により復興を果たし美しい天井絵が描かれました。本堂入り口には毛利家の家紋がついた大数珠があり、参拝の際に数珠を回して祈願することができます。

 天文九年(1540)、三休上人による創建と言い伝えられています。三休上人は山中村(現富山町)の重蔵山城主、富永山城守本保公の三男でした。毛利元就公と歴史的な出会いをしたと言われています。天文十二年(1542)、元就は、出雲での負け戦の帰りに立ち寄った寺で出会った三休上人から「やがては中国の大将に成り給うべし」と告げられ、敵の矢が身体にあたらない「矢違いのお守り」を贈られました。その版木は現在でも大切に保管されており非公開となっています。25年後、尼子氏を屈服させた帰り道に三休上人と再開し、元就は記念とお礼をこめて着ていた陣羽織を贈ったと言われます。この陣羽織は法衣に仕立て直され、福田衣として現在も寺宝となっています。

 その他、大田市の文化財に指定されている「腹籠もり地蔵尊」は、地蔵尊の中に小さなお地蔵様が入っており、安産祈願の仏様です。また、明治から昭和時代の日本画家西晴雲の昭和33年頃の作品である襖絵も見事です。

 寛永元年(1789)に14代目住職によって書かれた「観音堂由来記」には、「元禄六年(1693)に堂が建立され、石見銀山領三十三ヵ所の巡礼札所を初めて置きなさった。」と書かれています。

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