観音信仰あれこれ

提供:桜江古文書を現代に活かす会
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文:山崎禅雄日笠寺住職)

日笠寺

観音霊場を巡る信仰の旅は、すでに平安中期には近畿を中心にして始まっている。それが後に発展して西国三十三ヶ所の観音霊場の巡拝となる。こうした観音信仰の高まりは、西国にとどまらず、日本各地に及び、江戸中期には、庶民の経済力の高まりや旅の環境なども良くなったことも手つだって国々に三十三ヶ所が定められてゆく。この石見国においても同様であったが、またなお、石見銀山領のようなより狭い範囲内にも三十三ヶ所が定められ巡拝されるようになる。

こうした巡礼の風は、弘法大師への信仰を基にした四国遍路八十八ヶ所の巡礼もその例である。多くの寺々を巡る信仰の旅がなりたつ背景には、単なる寺社詣とは異なって、ある一定の域内に三十三ヶ所を定めるに足る観音を祀る寺院やお堂がすでに成立していたことになる。つまり、観音信仰は日本の隅々に広がっていたといえる。

日本で観音信仰が起るのは非常に古く、仏教伝来とほぼ同時といってよい。日本の仏教成立に強い影響を与えた聖徳太子が観音菩薩を深く信仰したことは、法隆寺夢殿の救世観音の存在が良く示しているし、また飛鳥・奈良時代の多くの仏教寺院の本尊などに祀られたことからも、その信仰の広がりと深まりが古いことが、想像される。

観音菩薩が数ある仏・菩薩の中で抜きんでて多くの人々に信仰されたのはなぜであろうか。もちろんいくつもの理由はあるが、中で最も重要なのは、大乗仏教の中心的経典である「法華経」に観音菩薩が衆生の苦厄を救済す力、神通力がいかに強いかを語る一章があることもその理由の一つである。その一章は、「観世音菩薩普門品」と言うが、そこでは、この菩薩が何時でも、何処でも、誰の前にも何のこだわりもなく自在に現れて、衆生の苦厄をとりのぞく救済の手立てを発揮すると特筆されているのである。観音をあらわす梵語(インドのサンスクリット語)は「アバロキティ・イー・シュヴァラ」といい、その意味は「あらゆる方角に顔を向ける神」であるという。この梵語を漢訳するとき「観世音」または「観自在」としたが、観世音、すなわち略して観音ということが多い。観音を像や絵に造形化したとき、その容姿から、普通は聖(正)観音、あらゆる方角に顔を向けることを象徴化して十一面観音、あらゆる方角に眼をやり、衆生の苦を視る、その苦の声を聴き、あらゆる救いの手立てをこうずることを具象化して千手千眼観音などと名づけられている。観音の異名は非常に多いが、それは衆生の苦を抜く方便を駆使する観音の能力の高さを示しているといってよいであろう。また面相は、馬頭観音のような忿怒の相は珍しく、ほとんどは礼拝する者に畏怖の感情を起こさせない慈悲にみちた無畏温和な相で、どちらかというと女性的な姿である。さらにこの菩薩は衆生救済のための手立てとして様々に変化変身することが出来た。それを法華経では三十三身に数えている。これが西国三十三ヶ所などの数の由来である。

確かに観音は魅力のある菩薩で、あらゆるものに神霊の宿りを感ずる日本人の心をとらえたとも言えるが、日本の宗教民俗学的にみると、観音の祀られた霊場の多くが水と深くかかわっていることも注目される。西国霊場一番が紀国熊野の那智の滝のある青岸渡寺であったり、三十三番札所の寺々には清水寺のような水の信仰と深く結びついた寺が多いのである。観音信仰が日本のいたる所に広まり、多くの人々に信仰された背景には、水を最も必要とする稲作を基底する日本文化があるように思える。

石見銀山領内の三十三ヶ所霊場のある寺院を観音と水という視点からながめ直してみると面白い発見があるのではなかろうか。

初出[編集]

石見銀山領三十三ヵ所巡り』(桜江古文書を現代に活かす会、2019年)。