石見銀山領の観音巡礼

提供:桜江古文書を現代に活かす会
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文:藤原雄高(石見銀山資料館学芸員)

観音巡礼とは、観音菩薩を安置する霊場を巡礼し、観音の功徳に与ろうとするものである。観音菩薩が衆生救済のために三十三の姿に変化して現れることに基づき、三十三所の霊場が設けられ、観音菩薩との結縁を願い、巡礼がおこなわれた。

「石州銀山近里巡礼縁起」には、三十三所巡礼の起源を熊野参詣とした上で、花山法皇が夢中に紀州権現の告げを受けたことを記す。すなわち、「昔、法華経一万部を書写された、播磨国書写山圓教寺開山の性空上人を冥途に召して、供養導師に定めたことがあった。閻魔大王は、性空上人に、娑婆に観音霊場が三十三カ所あり、この地を一度巡礼すれば、どのような悪行も罪を赦され、現世では一切の悪難を逃れ、来世では極楽往生できる、と言い、それを記した文を直に渡された。性空上人は、これを摂津国中山寺の麓に納められ、今に至っている。某もお供をして案内するので、すぐに思し召しを受けるために出発すべきである」(意訳)という霊夢である。花山法皇は、夢から覚めるとすぐに巡礼に出掛け、以降、誰もが巡礼するようになったという。畿内の観音霊場の三十三所を巡る西国巡礼の始まりである。

花山法皇の創始起源説の真偽はさておき、西国巡礼は少なくとも十二世紀後半までには成立したことが知られている。その後、関東へ観音巡礼が伝播し、鎌倉時代には坂東巡礼、十五世紀末には秩父巡礼が成立した。そして江戸時代になると、日本全国で百七十を超える三十三所巡礼がおこなわれていたことが認められる。

例えば、出雲地方では、出雲国一円の観音霊場三十三所を巡る観音巡礼は十七世紀前半までに成立しており、神門郡や意宇郡などの各郡を範囲とした巡礼も十七世紀後半から十八世紀前半にかけて開かれている。石見地方では、石見一国を範囲とした三十三所が設定されていたことが、地誌『石見八重葎』(文化十三年出版)によって知られている。ただし、その成立時期は定かではない。また、浜田藩領内の那賀郡では、元禄十五年(一七〇二)に三十三所が設定されたという。

さて、石州銀山領の観音霊場は、「観聴随筆」によると、須磨都という座頭を中心に、元禄五年(一六九二)より検討が進められ、元禄六年(一六九三)三月、快山院(大森町)、善興寺(天河内村)、安楽寺(静間村)の住職と浄土寺(野井村)の隠居を先導者に、僧侶と俗人の男女十数名が巡礼したのが最初とされている。これまで石見銀山領の観音巡礼に関する史料は乏しく、その実態は謎に包まれていたが、このたび中村家で発見された「石州銀山近里巡礼縁起」により、石見銀山領を範囲とした三十三所の観音霊場の具体例が初めて明らかとなった。

「石州銀山近里巡礼縁起」には、前半部に観音巡礼の所以、設置の理由、巡礼で得られる功徳など、後半に三十三所の所在、観音名、山号・寺院名、御詠歌、道法(路程)などが記されている。路程には、地名や川・坂の情報、三十三所以外の霊場、名所なども紹介されており、案内本としての性格を有しているといえる。また、御詠歌は石見国三十三所巡礼の御詠歌として『石見八重葎』に紹介されているものとは異なっている。

石見銀山領の三十三所巡りの順路は、邇摩郡銀山町の清水寺から始まる。銀山町から隣り合う大森町を経て北進し、邇摩郡東部の日本海側を東に進み、静間村から静間川に沿って安濃郡川合村に到ると、安濃郡内を時計回りに進み、三瓶山を越えて邑智郡に到る。邑智郡浜原村からは概ね江の川に沿って西に進み、川下村からは北西に進路をとり、邇摩郡温泉津村に到ると、今度は南西に進む。このように邇摩郡西部を進んで那賀郡に到ると、江の川沿いを東進。谷住郷からは北に進み、邇摩郡井尻村の高野寺で結ぶ。観音霊場が石見銀山領一帯に展開しているため、巡礼の路程には苦心のあとがうかがえる。末尾にも、順路は巡礼を進める中で改定するように記されている。 西国巡礼へは、遠く石見の地から、誰しもが行けたわけではない。石見銀山領の観音巡礼は、「西国巡礼に行きたいと望んでも、機会に恵まれなかったり、身体が不自由だったりして、思い立つことができない者がいるため、近郷を心に任せるままゆっくりと巡礼して、菩提の道に入ることができるようするため」(意訳)に開かれた、誰もが楽しめる祈りの道であった。

初出[編集]

石見銀山領三十三ヵ所巡り』(桜江古文書を現代に活かす会、2019年)。