「江戸へ持参の書物留」を編集中

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最新版 編集中の文章
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== 文書画像と釈文と書き下し文 ==
 
== 文書画像と釈文と書き下し文 ==
  
=== 1枚目(全21枚の内) ===
+
=== 1枚目(全9枚の内) ===
  
 
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         窪嶋作右衛門
 
         窪嶋作右衛門
 
      
 
      
=== 2枚目(全21枚の内) ===
+
=== 2枚目(全9枚の内) ===
  
 
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=== 3枚目(全21枚の内) ===
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=== 3枚目(全9枚の内) ===
  
 
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=== 4枚目(全21枚の内) ===
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=== 4枚目(全9枚の内) ===
  
 
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=== 5枚目(全21枚の内) ===
+
=== 5枚目(全9枚の内) ===
  
 
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  一 かの浅利寺看坊あい勤め申しそうろう愚伯司、去る秋あい果て
 
  一 かの浅利寺看坊あい勤め申しそうろう愚伯司、去る秋あい果て
  
=== 6枚目(全21枚の内) ===
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=== 6枚目(全9枚の内) ===
  
 
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  存じ奉らず候事に御座候御事
 
  存じ奉らず候事に御座候御事
  
=== 7枚目(全21枚の内) ===
+
=== 7枚目(全9枚の内) ===
  
 
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一 彼浅利寺看坊愚伯ゟ前々茂看坊相勤
 
申僧浄土宗看坊之時分ハ浄土寺ゟ年々
 
宗旨帳面ニ看坊ニ対し印形被致候纔成
 
浅利寺之儀ニ付壱ヶ寺与相究印形取
 
来り申候儀ハ無御座候其段ハ前々差上ヶ
 
置申候宗旨帳面ニ御座候彼浅利寺義ニ付
 
何れ之寺方中へ茂村方ゟ書付出し置候
 
儀ハ往古ゟ無御座上ハ万自今以後何れ之
 
寺方中ニ而茂浅利寺の儀ニ付障成義被
 
申出候ハヽ村役人共何方へ茂罷出申訳可仕御事
 
右之通り少茂偽無御座候黄檗山票
 
文并御役所江宗旨証文申請候儀ニ
 
御座候間壱ヶ寺御建立与為被思召上右願
 
之候筋宜被為仰付被下候様乍恐奉願申上候
 
以上
 
  享保十一年      願人浅利村庄屋 新助   印
 
 
   午六月          同年寄  又右衛門 印
 
                同頭百姓 嘉右衛門 印
 
                同同   八郎右衛門印
 
                同同   惣七   印
 
   
 
  
一つ、彼浅利寺看坊愚伯より前々も看坊あい勤め
+
=== 8枚目(全9枚の内) ===
申す僧、浄土宗看坊の時分ハ、浄土寺より年々
 
宗旨帳面に看坊に対し印形致されそうろう、僅か成る
 
浅利寺の儀に付き、壱ヶ寺とあい究め印形取り
 
来り申しそうろう儀は御座無くそうろう、其の段は前々差し上げ
 
置き申しそうろう宗旨帳面に御座そうろう、彼浅利寺義に付き
 
何れの寺方中へも村方より書き付け出し置きそうろう
 
儀は、往古より御座なき上は、万自今以後、何れの
 
寺方中にても浅利寺の儀に付き障り成る儀
 
申し出だされそうらはば、村役人共何方へも罷り出で申し訳け仕るべき御事、
 
右の通り、少しも偽り御座なくそうろう、黄檗山票
 
文ならびにお役所へ宗旨証文申し請けそうろう儀に
 
御座そうろうあいだ、壱ヶ寺ご建立と思し召し差し上げられ、右の願い
 
の筋、宜しく仰せ付けさせられ下されそうろう様、恐れながら願い奉り申し上げそうろう
 
以上
 
 
   享保十一年             願人浅利村庄屋 新助    印
 
    午六月              同年寄     又右衛門  印
 
                     同頭百姓    嘉右衛門  印
 
                     同々      八郎右衛門 印
 
                     同々      惣七    印
 
    
 
  
=== 8枚目(全21枚の内) ===
+
[[ファイル:A216-054.JPG|600px]]
  
[[ファイル:A216-054.JPG|600px]]
 
御役所
 
 
  浅利寺之儀ニ付覚書
 
一石州那賀郡浅利村ニ浅利寺と申寺号
 
 附候庵室前々ゟ有之候得共本寺不慥成候且今
 
 迄ハ所々ゟ看坊持ニいたし来候由然所        
 
 此度宇治黄檗山ゟ住寺差置可申候由書
 
 付等差越候
 
一右浅利寺之儀浅利村之者相尋候処
 
 寛永元年竹村丹後奉行之節川井小右衛門
 
 渡リ三郎衛門改候検地帳写ニ畑九畝拾歩浅利
 
 寺と記高外除地ニいたし在之候本帳ハ紛失
 
 いたし候由然共寺社領引渡帳ニハ不相見候
 
                 (載ヵ)
 
 惣而境内斗之除地者引渡寺社領帳ニハ裁
 
 不申茂有之由
 
一右之類前々村方ゟ願出候茂在之候得共引渡
 
     (載ヵ)
 
 
 
御役所
 
 
浅利寺の儀に付き覚え書
 
一石州那賀郡浅利村に浅利寺と申す寺号
 
 附きそうろう庵室前々よりこれ有りそうらえども、本寺慥かならずそうろう、且今
 
 までは所々より看坊持ちにいたし来りそうろう由、然る所        
 
 このたび宇治黄檗山より住持差し置き申すべくそうろう由、書き
 
 付け等差し越しそうろう
 
一右浅利寺の儀、浅利村の者あい尋ねそうろう処、
 
 寛永元年竹村丹後奉行の節、川井小右衛門・
 
 渡り三郎衛門改めそうろう検地帳写しに、畑九畝拾歩浅利
 
 寺と記し、高外除地にいたしこれ在りそうろう、本帳は紛失
 
 いたしそうろう由、然れども寺社領引き渡し帳にはあい見えずそうろう、
 
 そうじて境内ばかりの除地は引き渡し寺社領帳には載せ
 
 申さざるもこれ有る由、
 
一右の類前々村方より願い出そうろうもこれ在りそうらえども、引き渡し
 
 
      
 
      
 
+
=== 9枚目(全9枚の内) ===
=== 9枚目(全21枚の内) ===
 
  
 
[[ファイル:A216-055.JPG|600px]]
 
[[ファイル:A216-055.JPG|600px]]
    (載ヵ)
 
 寺社領帳ニ裁不申分ハ役所ニ而取捌難致
 
 段申渡置候由ニ候得共此度ハ黄檗ゟ書付等
 
 遣候事ニ候得共江戸ニ而可聞合事
 
   午九月
 
 
 
       
 
       
寺社領帳に載せ申さざる分は、役所にて取り捌き致し難き
 
段申し渡し置きそうろう由にそうらえども、このたびは黄檗より書き付け等
 
遣しそうろう事にそうらえども、江戸にて聞き合うべき事
 
   午九月
 
  
=== 10枚目(全21枚の内) ===
 
 
[[ファイル:A216-070.JPG|600px]]
 
 
一、此度銀山山師より御願申上候休谷新
 
 切地修復并柑子谷水抜御入用拝
 
 借銀弐百貫目被仰付候者御失
 
 墜無之御普請相調候様可仕候返
 
 
 
 
    覚
 
一、このたび銀山山師より御願い申し上げそうろう休谷新
 
 切地修復ならびに柑子谷水抜き御入用拝
 
 借銀弐百貫目仰せ付けられそうろうは、御失
 
 墜これ無くこの御普請あい調えそうろう様つかまつるべくそうろう、返
 
 
 
 
    
 
 
=== 11枚目(全21枚の内) ===
 
 
[[ファイル:A216-071.JPG|600px]]
 
納之儀ハ何時御取立被遊候共
 
少茂無遅々急度上納為仕可
 
申候以上
 
    享保十一年午九月    勝岡平八より
 
                宗岡安兵衛迄
 
 
 
 
一今度銀山惣山師ゟ御江戸ヘ罷下り御訴訟
 
 申上候休谷新切修覆御入用并柑子谷
 
水抜拝借銀弐百貫目被仰付候ハヽ
 
失墜無之様ニ随分情出し御普請
 
仕立可申候御銀返納之義者十五年
 
賦ニ被仰付可被下候縦年数之内成とも
 
   
 
納の儀は何時御取り立て遊ばされそうろう共、
 
少しも遅々無くきっと上納つかまつらせ申す
 
べくそうろう、以上
 
     享保十一年午九月    勝岡平八より
 
                宗岡安兵衛まで
 
 
 覚
 
 
一、今度銀山惣山師より御江戸へ罷り下り、御訴訟
 
申し上げ候休谷新切修覆御入用ならびに柑子谷
 
水抜き拝借銀弐百貫目仰せ付けられ候わば、
 
失墜これ無き様に随分情出し御普請
 
仕立て申すべく候。御銀返納の義は十五年
 
賦に仰せ付けられ下さるべく候。たとい年数の内なるとも
 
 
=== 12枚目(全21枚の内) ===
 
 
[[ファイル:A216-072.JPG|600px]]
 
何時御取立被遊候共御差図次第
 
少茂無滞返上可仕候以上
 
 
 享保十一年午九月 銀山山師不残
 
 
 覚
 
 
 石州銀山休谷新切間歩先年之拝借銀を以年々
 
 普請仕来り弐千尋余切延去冬存分之鉉ニ切当リ
 
 段々盛出申候尤右拝借銀ハ去冬返上納仕候
 
一新切間歩之儀土山二而千尋余之土留幷風廻シノ普請不仕候而ハ稼
 
 難成其上柑子谷と申所水抜普請之儀ニ付
 
 拝借被仰付被下候様ニ銀山役人山師共ニ
 
 当夏中御当地ニ相詰段々相願申候依之先達而
 
  右之趣申上候得者灰吹出方并柑子谷普請所之
 
  儀猶又委細見分仕申上候様ニ被仰渡候ニ付
 
  此度新切間歩灰吹出方様吹又者昼夜出
 
  鏈之俵数等此度毎月相改委細吟味仕候
 
  処ニ不相替出方宜御座候則当正月ゟ九月迄
 
  之出方別紙書付差上ヶ申候
 
 
 
 
    
 
何時御取り立て遊ばされ候とも、御差図次第
 
少しも滞り無く返上仕るべく候、以上
 
 
   享保十一年午九月 銀山山師残らず
 
 
  覚
 
 
 石州銀山休谷新切間歩、先年の拝借銀を以て年々
 
 普請仕り来たり、弐千尋余り切延ばし、去る冬存分の鉉に切当たり
 
 段々盛んに出で申し候、尤も右拝借銀は去る冬返上納仕り候
 
  一.新切間歩の儀、土山にて千尋余りの土留ならびに風廻しの普請仕らずそうらはでは稼ぎ
 
  成り難く、その上柑子谷と申す所水抜き普請の儀に付き
 
  拝借仰せつけられ下され候様に、銀山役人山師共に
 
  当夏中御当地に相詰め段々あい願い申し候これに依り先だって
 
  右の趣申し上げそうらえば、灰吹出方ならびに柑子谷普請所の
 
  儀、なおまた委細見分仕り申し上げそうろう様に仰せ渡されそうろうにつき、
 
  此度新切間歩灰吹出方ためし吹きまたは昼夜出
 
  鏈の俵数など、此度毎月あい改め委細吟味仕りそうろう
 
  処に、相替らず出方宜しくござそうろう、すなわち当正月より九月まで
 
  の出方別紙書き付け差し上げ申しそうろう、
 
 
=== 13枚目(全21枚の内) ===
 
 
[[ファイル:A216-073.JPG|600px]]
 
         (者ヵ)
 
一、柑子谷普請之仕形□是又見分仕候処ニ
 
此場所ハ石山ニ候故殊之外間歩丈夫ニ而一通リ
 
普請仕候ハゝ土留普請茂有御座間敷場所と
 
相見へ申候先年此場所稼候節茂銀鏈勝候而
 
宜山之由申候其上柑子谷之儀大谷辺より壱丁
 
程地下り故此所水抜普請仕候得者銀山谷之
 
              (就ヵ)
 
諸間歩之水抜二罷成然中弐拾六口之間歩ハ
 
鏈を見懸ケ候へ共水湛稼相延差置申候此間歩
 
共ニ悉水旱落目前と十分之稼罷成候由
 
申候ニ付小吹屋山ゟ水縄を引見分仕候得ハ
 
壱町程地下りニ而御座候弐拾六口之間歩も見分
 
仕候処ニ柑子谷水抜普請成就仕候ハヽ必定
 
水落可申様ニ相見へ申候柑子谷并弐拾六口
 
之間歩相稼候ハヽ弥以出方宜御徳用茂
 
大分相増可申候右之通新切間歩も段々
 
                (はかばかヵ)
 
出方宜御座候得共普請者ヽかヽ敷ふ罷成土留
 
崩候へハ敷内ニ水を包及大破ニ候而ハ如何様
 
仕候而茂早速取明ヶ申儀不罷成候旁以役人山師
 
共願之通拝借銀弐百貫目被仰付候様ニ仕
 
 
一、柑子谷普請の仕形はこれまた見分仕りそうろう処に
 
この場所は石山にそうろうゆえ、殊の外間歩丈夫にて一通り
 
普請仕りそうらはば、土留普請も御座有るまじき場所と
 
相見へ申しそうろう、先年この場所稼ぎそうろう節も、銀鏈勝れそうろうて
 
よろしき山の由申しそうろう其の上柑子谷の儀、大谷辺より壱丁 
 
程地下り故、此の所水抜普請仕り候へば、銀山谷の
 
諸間歩の水抜きに罷り成り、なかんずく弐拾六口の間歩は 
 
鏈を見懸け候へ共、水湛へ稼ぎあい延び差し置き申し候、此の間歩   
 
共に悉く水旱落目前と、十分の稼ぎ罷り成り候由
 
申し候に付き小吹屋山より水縄を引き見分仕りそうらはば
 
壱町ほど地下りにて御座そうろう 弐拾六口の間歩も見分
 
仕りそうろう処に柑子谷水抜普請成就仕りそうらはば必定
 
水落申すべき様にあい見へ申しそうろう 柑子谷ならびに弐拾六口
 
の間歩あい稼ぎそうらはばいよいよ以て出方宜しく御徳用も
 
大分あい増し申すべくそうろう 右の通り新切間歩も段々
 
出方宜しく御座そうらえども普請はかばかしく罷り成らず土留
 
崩れそうらへば敷内に水を包み大破に及びそうろうては如何様
 
仕りそうろうても早速取り明け申す儀まかりならずそうろう かたがた以て役人山師
 
共願の通り拝借銀弐百貫目仰せ付けられそうろう様に仕り
 
 
=== 14枚目(全21枚の内) ===
 
 
[[ファイル:A216-074.JPG|600px]]
 
度奉存候返納之儀者拾五年賦ニ年ヽ
 
返納可為仕候
 
一山師江一向山相渡候得者鏈分相成候故
 
御徳用大分減少仕候縦令山師稼之
 
山ゟ灰吹百貫目出候得者金弐百両程
 
運上相納り申候御入用を以普請仕候山ゟ
 
灰吹百貫目出候得ハ金六百両余之御徳用
 
御座候且又拝借被仰付候上若山ふ盛り
 
候而御費之方ニ相見へ候ハヽ何時茂返上納可為
 
仕候此段委細吟味を詰候所決而相滞之儀
 
無御座候尤地役人山師共方ゟ証文茂取置
 
申候何とそ願之通被仰付被下候様ニ仕度
 
奉存候去巳年と当午年御徳用之差
 
引仕差上ヶ申候己上
 
 
石州銀山午年正月ゟ同九月迄出灰吹髙
 
一 灰吹銀拾弐貫三百六拾三匁弐分              正月分
 
一 同四拾六貫八百四拾七匁壱分                二月分
 
一 同八拾六貫五百五拾六匁四分五厘              三月分
 
 
 
たく存じ奉りそうろう 返納の儀は拾五年賦に年々
 
返納仕らせべくそうろう
 
山師へ一向あい渡しそうろえば、鏈分けあい成りそうろう故
 
御徳用大分減少仕りそうろう。たとい山師稼ぎの
 
山より灰吹百貫目出そうろえば、金二百両ほど
 
運上あい納り申しそうろう。御入用を以て普請仕りそうろう山より
 
灰吹百貫目出そうろえば、金六百両余りの御徳用
 
御座そうろう。且つ又拝借仰せ付けそうろう上、もし山ふ盛り
 
そうろうて御費の方にあい見へそうろはば、何時も返上納
 
仕りさすべくそうろう。この段委細吟味を詰めそうろう所、決してあい滞りの儀
 
御座なくそうろう。尤も地役人山師共方より証文も取り置き
 
申しそうろう。何とそ願いの通り仰せ付けられ下されそうろう様に仕りたく
 
存じ奉りそうろう。去巳年と当午年御徳用の差し
 
引き仕り差上げ申しそうろう。己上
 
 
 
 
 
    
 
 
=== 15枚目(全21枚の内) ===
 
 
[[ファイル:A216-075.JPG|600px]]
 
一 同七拾八貫弐百八拾九匁五分                四月分
 
一 同六拾三貫八百弐拾五匁四分                五月分
 
一 同六拾壱貫九百九拾九匁三分五厘            六月分
 
一 同六拾八貫百五匁四分                        七月分
 
一 同七拾四貫百四拾四匁七分四厘五毛          八月分
 
        内四拾貫目九月分灰吹登銀ニ入
 
一 同六拾三貫百四匁八厘                      九月分
 
    合五百五拾五貫弐百三拾六匁壱分弐厘五毛
 
        以上
 
      享保十一年午九月
 
 覚
 
一、先年柑子谷水抜御普請之儀後藤覚右衛門
 
御代官之節銀弐百貫目御入用被下置
 
普請被仰付候処石堅ク積之外切地相延
 
 
  覚え
 
一、先年柑子谷水抜御普請の儀、後藤覚右衛門
 
御代官の節、銀弐百貫目御入用下し置かれ
 
普請仰せ付けられそうろうところ、石堅く積みのほか切地相延び
 
 
=== 16枚目(全21枚の内) ===
 
 
[[ファイル:A216-076.JPG|600px]]
 
不申其上切当テ可申積之鉉筋も悉纔
 
石目之様成物斗切出シ稼捗取り不申ニ付
 
 
申さず、その上切り当て申すべくつもりの鉉筋もことごとくわずか、
 
石目の様なる物ばかり切り出し、稼ぎ捗り申さずに付き
 
 
    
 
 
=== 17枚目(全21枚の内) ===
 
 
[[ファイル:A216-077.JPG|600px]]
 
=== 18枚目(全21枚の内) ===
 
 
[[ファイル:A216-081.JPG|600px]]
 
 
    
 
=== 19枚目(全21枚の内) ===
 
 
[[ファイル:A216-082.JPG|600px]]
 
=== 20枚目(全21枚の内) ===
 
 
[[ファイル:A216-083.JPG|600px]]
 
 
    
 
=== 21枚目(全21枚の内) ===
 
 
[[ファイル:A216-084.JPG|600px]]
 
  
 +
 
 
== 現代語訳 ==
 
== 現代語訳 ==
 
  享保十一年
 
  享保十一年
675行目: 343行目:
 
  次に、郷田村観音寺のほうからも浅利寺について願い出ておりますことは
 
  次に、郷田村観音寺のほうからも浅利寺について願い出ておりますことは
 
  村役人たちは全く知らなかったことでございます。
 
  村役人たちは全く知らなかったことでございます。
 
彼の浅利寺は愚伯が看坊を務めるより前でも、
 
看坊を務める僧が浄土宗の僧であった時は、浄土寺から毎年
 
宗旨帳面に看坊の身元を証明する印を押してもらっていました。
 
小さな浅利寺のことですので、一つの寺に限定して印を押してもらっていた
 
ということはありません。そのことは前々から差し上げて置いてある
 
宗旨帳面に記してあります。
 
彼の浅利寺については、どこの寺へも村方より書付を出して置いたということは、
 
昔からございません。したがって、いろいろとこの後にどこの
 
寺からであっても、浅利寺について障りの有る事を、
 
申されましたら、村方の役人どもがどこへでも出向いて申し開きをいたします。
 
右の通り、少しも偽りはございません。黄檗山の票文と
 
御役所への宗旨証文を申し請けてございますので、
 
壱ヵ寺の御建立とお考えいただき、
 
右の願いの通りによろしくご命じくださいますよう、
 
恐れながら願い奉り申し上げます。
 
 
 
浅利寺の事についての覚え書
 
一石州那賀郡浅利村にある浅利寺という寺号のついた
 
 庵室は前々からあるのだけど、本寺がどこかが確かではありません。
 
 しかも今までは所々から僧侶を呼んで看坊を置いていたのですが、しかし
 
 このたび宇治黄檗山から住持を置くことにしたとのことで文書が
 
 送られて来ました。
 
一右の浅利寺について浅利村の者へ尋ねてみたところ
 
 寛永元年に竹村丹後が奉行であったとき、川井小右衛門と
 
 渡三郎衛門というのが調査した検地帳の写しに、畑九畝拾歩浅利
 
 寺と記して、石高のつけられていない除地にしてあるとこのことです。(しかし)元の帳面は紛失しているそうであります。
 
しかし寺社領引き渡し帳には記載がありません。
 
 一般的に境内ばかりの除地の場合には引渡し寺社領帳には載せて
 
 いないこともあるそうです。
 
一右の類は前々から村方から願い出もよくあるのですが、引渡し
 
 寺社領帳に記載がない分は、役所で認めることが出来ないと申し渡しました。
 
 しかし、今回は黄檗山萬福寺から文書が
 
 送られて来たので、大森の現地では判断出来ないので、江戸で聞くことにします。
 
    午九月
 
 
 
 覚
 
一、この度、銀山の山師から(幕府へ)お願い申し上げた休谷に新
 
 たに開いた坑道の修復と柑子谷の排水工事の費用として拝
 
 借銀二百貫匁(二十万匁)をご命じくだされば、ご損害
 
 を与えることなくきちんと工事を完成させます。この拝借銀の返
 
 納については、いつ取立てられても
 
 少しも遅れることなくきっと上納させます。以上。
 
  享保十一年午九月    勝岡平八より
 
              宗岡安兵衛まで
 
 
 
 
一、今度、銀山のすべての山師のほうから御江戸ヘ出向いて願い申し上げております
 
休谷の新切という坑道の修復費用と、柑子谷の水抜き工事の費用の拝借銀弐百貫目をお渡しくださいますならば、
 
ご損失のないように随分精を出して工事をいたします。御銀の返済の期間は十五年賦とご命じください。
 
たとえ年数の間で、いつ御取立てを依頼されても、ご命令次第で少しも滞りなく返済いたします。以上。
 
 
 享保十一年午九月 銀山山師残らず
 
 
  石州銀山の休谷にある新切間歩は、先年の拝借銀をもちまして年々
 
 工事を進め、弐千尋余りも切り延ばしました。去年の冬思い通りに鉱脈に切当たり、
 
 徐々に盛んに鉱石が出てきました。よって右の拝借銀は去年の冬に返上いたしました。
 
一.新切間歩は土山で、千尋余りの区間に土留めと通気の工事が必要であり、
 
  それを行わなければ、経営が成り立ちません。それから、柑子谷の水抜き工事もあるので、
 
  拝借を仰せつけていただけるようにと銀山役人と山師がともに
 
  この夏は江戸に詰めてあれこれとお願い申し上げました。これによって(私たちの方から)ついこの前
 
  右の趣旨を申し上げましたところ、灰吹き銀の産出量と柑子谷の普請の
 
  ことをさらに詳しく調べてくるようにいわれましたので、
 
  まず新切間歩の灰吹き銀の産出量を見積もるために試し吹きしたもの、また昼夜産出した
 
  鉱石の俵数などを、この度毎月調査し詳細を調べることをしました
 
  ところ、相変わらず産出量は非常に好調でした。そこでこの正月から九月まで
 
  の産出量を別の文書に書き付けて差し上げます。
 
 
一、柑子谷における工事の仕方については、これまた調査してみたところ、
 
この場所は石山であるので、特別に間歩は丈夫です。一度
 
工事をしてしまえば、土を留める工事も必要ない場所であるように
 
見えます。先年もこの場所を経営した際には、銀鉱石の質が良く、
 
非常に良い山であると聞いております。
 
そのうえ柑子谷は大谷辺りよりも壱丁ほど
 
地面が低いので、ここに水抜き工事をすれば、
 
銀山内の諸間歩の水抜きになります。とりわけ、銀山谷の二十六の間歩については、
 
鉱石を見ることはできるが、地下水で埋まっており放ってある状態です。
 
そこで、この水抜き工事ができるならこの水が全て落ちることは目前で、
 
十分の稼ぎができることを申し上げます。
 
小吹屋山から水縄を引いて調査したら、一町ほど地面が低かったです。
 
二十六の間歩も調査したところ、柑子谷の水抜き工事が成功し水が落ちることは間違いないように見えました。
 
柑子谷に加え二十六の間歩も経営していくことができたら、
 
銀鉱石をますます産出でき、幕府の利益も大分増すと思います。
 
同様に、新切間歩も産出銀が段々増えてきていますが、工事は成功していません。
 
もし土留めが崩れてしまったら、坑道内に水がたまり大破してしまいます。
 
そうなったら、すぐに坑道を開くことはできません。
 
役人と山師が共にお願いしている通り、二百貫目の拝借銀をもって仰せ付けられますようお願いいたします。
 
返却については、十五年賦で毎年お返しいたします。
 
 
一山師にすべてを渡して請け山にしてしまえば、山から出て来る鉱石をそのまま配分することになるので、
 
幕府の利益が大きく減少することになります。
 
たとえば、山師が請け山にしている山から灰吹法によって銀が百貫目出れば
 
金二百両ほどが幕府に運上金として納められます。
 
しかし幕府からの資金をもって普請した山から灰吹銀が百貫目出れば金六百両余りの利益になります。
 
その上、資金を拝借して掘ってみて、鉱石の出が悪く損失が出るように見えた場合は借りたお金については、
 
いつでも返済させます。これらについても詳細に検査しましたが決して返済が滞るようなことはありません。
 
在地の幕府の役人山師たちから証文も取っております。
 
なにとぞ願いの通り、拝借を仰せ付けられますようお願いいたします。
 
去年巳年と今年午年の利益の計算したものを差し出します。以上。
 
 
覚え
 
一、先年の柑子谷の水抜き工事については、後藤覚右衛門が
 
代官だった頃に、銀二百貫を費用としてくだされて、工事が命じられました。
 
しかし、とても石が堅く、予定よりも開削が進みませんでした。
 
その上、掘り当てるはずだった鉱脈に向かって掘っても、
 
銀の含有量が少ない石のようなものばかりが出てきて、経営はうまく行きませんでした。
 
  
 
== 脚註 ==
 
== 脚註 ==

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