「慶応三年 願書扣」を編集中

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最新版 編集中の文章
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== 現代語訳 ==
 
== 現代語訳 ==
恐れながら書付をもちましてお願いを申しあげます
+
 
大家組邑智郡大貫村庄屋久左衛門が恐れながら申上げます。
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松江城ニの丸のお蔵入り米を私どもに仰せつけられたけれども
私は卑しい身分のものなので、大げさに申し立てるようになってしまうのは恐れ入ることなのですが、
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算段がつきませんので、あなた様へ御頼みいたしましたところ、前書きの銀子をお貸し
私より十二代前の野坂市介が当主だった代には、田畑山林などもそれなりに所持しており、
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くださることにことになり、たしかに受け取りました。
鉄山数か所も経営していました。
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お借りしたうえは、3月から12月まで1割半の利息で元利ともに不足なく返済いたします。
また、沖船三艘を持っており、御先祖元就様の御代には船手御用を務め、御目見えを許され、
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万一私ども借主がお返しできなかった時には、請け人が日限迄にきっとお返し致します。
廣政の作った脇差を拝領いたしました。
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間違えなくお返しいたします。返済について御念を入れられたので、宝暦14年11月、神門郡にて
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24ヵ村より別紙証文をお渡しした通り、少しも相違無くお返し致します。
輝元様御代も替わらず御用を勤めたので御目見えをたまわり、
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このように決めたうえは、いかなる別の新しい法律ができたとしても、間違えなくお返し致します。以上の通り、後日、
温泉村沖の浦という所に屋敷地を拝領いたしました。
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請け人及びお役所の奥書きを取りお渡ししました。
毛利家から頂いた御判物は今に至るまで有難く、家宝として尊仰しております。
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宝暦14年申4月(明和元年・1764年)<ref>脚註のダミーです。</ref>
野坂市介が頂いた物ですが、市介が年老いて死んでしまい、
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息子の藤松はまだ幼いので、母親が諸事世話取をいたし、
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ニの丸お蔵入り米を才覚できず、丁銀25貫目の借用申し込みをする。
毛利家に対する船方の供出だけは親戚に頼みました。
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これによって米を上納した
その折、温泉津村の明屋敷を預けてくれるようお願いしたところ、
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3月~12月まで一割半の利で返済を約束する
当時のご城主児玉美濃守就久様武安孫三郎元種様ご両人から
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聞き届けたという書付が藤松の母へ下されました。
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■借主 雲州神門郡大津の山田又右衛門、森廣幾太
藤松は成人してから久左衛門と改名しました。
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長子久左衛門二男金九郎の二人があります
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■保証人 雲州郡知伊宮の山本仁兵衛、杵築の藤間久左衛門、松江の森脇甚右衛門
兄の久左衛門の頃は既に
+
 
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■貸主 西田屋幾六、角屋庄十郎
徳川様の御治世になっていたのですけども、
+
 
毛利家から代々厚く恩義を受けておりましたこと感じ入って、
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■松江藩勝手方役人、奉行が連著保証の奥書きをしている
元禄年間の前には御国を慕って、
+
 
長州萩へ参り西田町へ住み、生まれ故郷の
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    勝手方役人 和田理八、岡本彦助、田中幸平、後藤九兵衛、荒井助市
大貫村の住所地名で中村というのを苗字にして、
+
 
中村久左衛門と名乗り、相変わらず御用を勤めました。大
+
    勝手方奉行 磯崎丈太夫、湯川治兵衛、山本覚兵衛
貫村の方は家屋敷田畑山林そのほかすべてを、
+
 
弟の野坂金九郎へ譲りました。そのころ前後には、度々
 
御用銀なども久左衛門と金九郎から毛利家へ差し出して、そのことを証する御書き
 
下しも数通有ります。したがって、その時の
 
御判物そのほか古い文書などもご覧いただく備えができております。
 
そうしている所、金九郎には実子がいなかったので、
 
萩の方へいった兄の中村久左衛門の次男の
 
辰右衛門という者を世継ぎに貰い受けました。久左衛門の方の嫡子の
 
喜左衛門は相変わらず御用を勤め、
 
お目見えも命じられていましたところ、喜左衛門が死去した後は、
 
どのような事情なのでしょうか、中村の方は(萩から)撤退し、生国(石見)
 
に戻り、家族も大貫村へ引き取りました。
 
その頃までは、厚く御恩沢をいただき、
 
苗字帯刀などの情け、
 
お目見え等も命じられ、石見と長門の両所で
 
御用も勤めていました所、
 
徳川様が治める世の中になってからは、平百姓同様に苗字帯刀もいたしませんようなっておりますが、
 
おおよそ代々役人としての勤めもこなし、
 
先祖始まって以来、二十代あまりも続いております家筋のものでございますので、
 
どうか特別の評議を持ちまして以前の通り苗字を名乗ることができますよう、
 
ご決定をお命じ下しおかれますなら、重ね重ねお恵みを有り難き幸せと存じたてまつります。
 
右のことは悪くないようお考えられ、願いの旨をお許しの程、ひたすら願い上げます。以上。
 
 
慶応三丁卯十一月   大家組
 
                  邑智郡
 
                  大貫村
 
                    庄屋
 
                    久左衛門
 
                    庄屋見習い
 
                    忰 金九郎
 
大森
 
御本陣所
 
  
 
== 脚註 ==
 
== 脚註 ==

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