「川本村と因原村の訴訟」を編集中
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東北川本村鋳物師山西南因原村之内 | 東北川本村鋳物師山西南因原村之内 | ||
菅之谷山字青松と申候則青松と申鈩所も御座候 | 菅之谷山字青松と申候則青松と申鈩所も御座候 | ||
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西南は濱田領因原村よりあい分かれ、前々より大峯水流限り | 西南は濱田領因原村よりあい分かれ、前々より大峯水流限り | ||
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東北川本村鋳物師山西南、因原村の内 | 東北川本村鋳物師山西南、因原村の内 | ||
菅の谷山字青松と申し候、則青松と申す鈩所も御座候 | 菅の谷山字青松と申し候、則青松と申す鈩所も御座候 | ||
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=== 4枚目(全8枚の内) === | === 4枚目(全8枚の内) === | ||
[[ファイル:ゆ40-107.jpeg|600px]] | [[ファイル:ゆ40-107.jpeg|600px]] | ||
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=== 5枚目(全8枚の内) === | === 5枚目(全8枚の内) === | ||
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管理してきました。 | 管理してきました。 | ||
− | + | 因原村挽谷山は山役銀を一年に | |
− | + | 百三匁二分五厘づつ、古来より納めています。その上、 | |
− | + | この山内は一石九斗七升六合の地高を前々から松平周防守様 | |
− | + | お役人中より下された検地帳などで明らかです。山峰より | |
西南に犬ヶ谷という名前の所はありません。宝永五子の年まで、 | 西南に犬ヶ谷という名前の所はありません。宝永五子の年まで、 | ||
− | + | 幕府領の川本村のお百姓の住居があります場所と川本村が申している場所は | |
先年、挽谷山の持主の浜田藩領の同国同郡井原村の | 先年、挽谷山の持主の浜田藩領の同国同郡井原村の | ||
− | + | 多郎衛門と申す者の家来が山番人を置きました場所で、 | |
− | + | 検地帳に二ヶ条ある、下下畑三畝二十歩右一石九斗七升六合のうちです。 | |
この場所を現在においても清五屋敷と言っています | この場所を現在においても清五屋敷と言っています | ||
− | + | ここの横手道の上下に生えている木を度々伐採しては炭焼きをして | |
挽谷鈩を経営してきたことに間違いございません | 挽谷鈩を経営してきたことに間違いございません | ||
− | + | 勿論この場所について争いになったことなどは存じ上げません | |
− | + | 一の丸二の丸から八色石村の境まで、これも山の峯で境界を分け | |
− | + | 東北は川本村鋳物師山、西南は因原村の菅の谷山に青松というところがございます | |
− | + | そして青松という所には鈩所もございます | |
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== 脚註 == | == 脚註 == |