川本村と因原村の訴訟

提供:石見銀山領33ヵ寺巡り
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目録番号:ゆ401

担当:島根大学法文学部社会文化学科歴史と考古コース古文書ゼミ


文書画像・釈文・書き下し文[編集]

1枚目(全8枚の内)[編集]

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 乍恐以返答書奉申上候覚
         本多中務大輔領分
          石州邑智郡因原村
              五郎右衛門
              与兵衛
              嘉兵衛
              武右衛門
              文三郎
              重兵衛
              小兵衛
          同国同郡井原村
              重右衛門
       川崎平右衛門様御代官所
          同国同郡川本村
           相手 重郎兵衛
恐れながら返答書を以て申し上げ奉り候覚え
         本多中務大輔領分
          石州邑智郡因原村
              五郎右衛門
              与兵衛
               嘉兵衛
              武右衛門
              文三郎
              重兵衛
              小兵衛
          同国同郡井原村
              重右衛門
       川崎平右衛門様御代官所
          同国同郡川本村
           相手 重郎兵衛

2枚目(全8枚の内)[編集]

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                       𠮷右衛門
              善四郎

石州邑智郡因原村之者共乍恐申上候御料川本之
者共去ル申ノ閏十二月廿三日私共古来ゟ作配来候
因原村地内挽谷山江大勢ニ而罷越炭竈数ヶ所并
小屋迄焼払狼藉仕候ニ付早速以使相断地頭役人江
茂注進仕候所同月廿九日大森御役所ゟ御添状ヲ
以川本村之者共浜田表ヘ出訴仕候付私共浜田役所江
被呼出段々吟味之上大森御役所江添状相願返答
書持参仕御吟味奉願候所御料私領之出入御役所ニ而
御吟味難被成由ニ而御取上無御座候罷帰候其以後双方
より仲人共罷出取扱内済之儀仲人ゟ申談候得共相調
不申候ニ付川本村ゟ御訴訟申上御差紙頂戴仕
立会絵図被仰付奉畏則絵面奉指上候
何分以御慈悲御吟味被下置候様乍恐奉願上候
委細左ニ奉申上候
一右山境之儀ハ郷川端みそ谷下も之木屋之先
峯境ニ而夫より飛渡田代日向山空山かす峠大槙平空
小鉄場之空挽谷山より一ノ丸二ノ丸八色石村境まて
山境峯分水流境ニて東北ハ御料川本村
                      𠮷右衛門
              善四郎
石州邑智郡因原村の者ども、恐れながら申し上げ候、御料川本の
者ども、去る申の閏十二月廿三日、私ども古来より作配来り候
因原村地内挽谷山へ大勢にて罷り越し、炭竈数ヶ所ならびに
小屋迄焼き払い狼藉仕り候に付き、早速使いを以ってあい断り、地頭役人へ
も注進仕り候所、同月廿九日大森御役所より御添状を
以って川本村の者ども浜田表へ出訴仕り候付き、私ども浜田役所へ
呼び出され、だんだん吟味の上、大森御役所へ添状あい願い、返答
書持参仕り御吟味願い奉り候所、御料私領の出入御役所にて
御吟味成され難き由にて御取り上げ御座無く候、罷り帰り候、其れ以後双方
より仲人ども罷り出取扱い内済の儀、仲人より申し談じ候えども、あい調い
申さず候に付き、川本村より御訴訟申し上げ、御差紙頂戴仕り、
立会い絵図仰せ付けられ畏み奉り、則ち絵面指し上げ奉り候、
何分御慈悲を以て御吟味下し置かれ候様恐れながら願い上げ奉り候、
委細左に申し上げ奉り候
一右山境の儀は、郷の川端みそ谷しもの木屋の先
峯境にて、夫より飛び渡り田代日向山空山かす峠大槙平空
小鉄場の挽谷山より、一の丸二の丸八色石村境まで、
山境峯分け水流境にて、東北は御料川本村

3枚目(全8枚の内)[編集]

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西南ハ濱田領因原村より相分前々より大峯水流限り
作配仕来り申候因原村挽谷山之儀山役銀一ヶ年ニ
百三匁弐分五厘ツゝ古来ゟ上納仕来申候其上
此山内ニ高壱石九斗七升六合地高前々松平周防守様
御役人中ゟ被下置候御水帳面等明白ニ御座候山峯ゟ
西南ニ犬ヶ谷与申名所無御座候宝永五子ノ年迄
御料川本村之御百姓住居仕候与川本村ゟ申候場所ハ
先年挽谷山持主浜田領同国同郡井原村
多郎右衛門と申者之家来山番人居置申候場所ニ而
御縄弐筆下々畑三畝弐拾歩右壱石九斗七升六合
之内ニて御座候此場所ヲ於只今ニ茂清五屋敷と
唱申候横手道より上下共生木之度々伐取炭焼
挽谷鈩吹来作配仕候所相違無御座候勿論
此場所及争論ニ申事及承不申候一ノ丸
二ノ丸より八色石村境迄是茂同峯分ケニて
東北川本村鋳物師山西南因原村之内
菅之谷山字青松と申候則青松と申鈩所も御座候
古田大膳太夫様松平周防守様御領知之節ゟ
今以役銀一ケ年百四拾目宛上納仕立木之
度々炭ニ焼鈩吹来申候。古来より鈩
西南は濱田領因原村よりあい分かれ、前々より大峯水流限り
作配仕り来り申し候因原村挽谷山の儀、山役銀一ヶ年に
百三匁弐分五厘づつ、古来より上納仕り来たり申しそうろう。其の上
此の山内に高壱石九斗七升六合地高、前々松平周防守様
御役人中より下し置かれそうろう。御水帳面等、明白に御座そうろう。山峯より
西南に犬ヶ谷と名申す所御座無くそうろう。宝永五子の年まで、
御料川本村の御百姓住居仕りそうろうと、川本村より申しそうろう場所は
先年、挽谷山持主浜田領同国同郡井原村
多郎右衛門と申す者の家来山番人居え置き申しそうろう場所にて、
御縄弐筆、下々畑三畝弐拾歩、右壱石九斗七升六合
の内にて御座そうろう。この場所を只今に於いても清五屋敷と
唱え申し候、横手道より上下共生木の度々伐り取り炭焼き、
挽谷鈩吹き来たり作配し候所、相違御座無く候、勿論
この場所争論に及び申す事、承り及び申さず候、一の丸
二の丸より八色石村境まで、これも同じく峯分けにて
東北川本村鋳物師山西南、因原村の内
菅の谷山字青松と申し候、則青松と申す鈩所も御座候
古田大膳太夫様、松平周防守様、御領知の節より
今以つて役銀一ケ年百四十目宛て上納仕り、立木之
度々炭に焼き、鈩吹き来たり申しそうろう。古来より鈩

4枚目(全8枚の内)[編集]

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起之度々山峯迄立木伐取り候得共、是迄聊
差障無御座候。然ル所此度川本村山内与申殊ニ
去々年川本村衆中大森御添翰ヲ以浜田江
被二相願一候、一ノ丸二ノ丸之境者何之願茂無二御座一候
所右山境此度書出候者相工事与奉存候

一 大雪ニ而通路不自由之節炭焼連レものニテハ無御座候
  梚谷山持主御料濱原村幾六濱田領因原村与兵衛
  右両人より申ノ八月井原村重右衛門立木一生
  売渡同十月鈩打付十月中頃ゟ十一月中頃迄
  重右衛門ゟ炭竃打付日々炭焼申候
起こしの度々山峯まで立木伐り取り候えども、これまで聊かも
差し障り御座無くそうろう。然る所この度川本村山内と申し、殊に
去々年川本村衆中大森村御添翰を以つて浜田へ
あい願われそうろう、一ノ丸二ノ丸の境は何の願いも御座無くそうろう。
所右山境この度書き出しそうろう者、相工事と存じ奉りそうろう。

一 大雪にて通路不自由の節、炭焼連れものにては御座無く候。
  梚谷山持ち主御料濱原村幾六、濱田領因原村与兵衛、
  右両人より申の八月、井原村重右衛門立ち木一生
  売り渡し、同十月鈩打ち付け、十月中頃より十一月中頃迄
  重右衛門より炭竃打ち付け、日々炭焼申し候。

5枚目(全8枚の内)[編集]

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6枚目(全8枚の内)[編集]

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7枚目(全8枚の内)[編集]

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8枚目(全8枚の内)[編集]

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現代語訳[編集]

恐れながら返答書を以て申し上げます覚え書き
         本多中務大輔領分
          石州邑智郡因原村
              五郎右衛門
              与兵衛
              嘉兵衛
              武右衛門
              文三郎
              重兵衛
              小兵衛
          同国同郡井原村
              重右衛門
       川崎平右衛門様御代官所
          同国同郡川本村
           相手 重郎兵衛
              𠮷右衛門
              善四郎

石州邑智郡因原村の者どもが、恐れながら申し上げます。御料(幕領)である川本村の者どもが、
去る申の閏十二月二十三日に、私どもが古来より管理してきました因原村地内の挽谷山へ大勢でやってきて、
炭竈を数ヶ所、それから小屋までも焼き払い乱暴狼藉を働いたので、
早速使いを出して(因原村に)知らせ、浜田藩領の役人へも急ぎ報告しました。
そうしたところ、同月二十九日に、大森御役所から御添状を貰った川本村の者どもが浜田藩へ出訴しましたので、
私どもは浜田の役所から呼び出され、あれこれと吟味が行われました。
私どもは浜田藩に添状を願い出て、返答書を持って大森御役所へ御吟味を願いましたところ、
幕府領と私領間の訴訟は御役所にて御吟味できないという理由で訴えを御取り上げないとされ、一旦帰りました。
その後、双方から仲裁人を出して調停をはかり、仲裁人から示談による和解が提案されましたが、
互いに折り合いがつかなかったので、川本村より(江戸の勘定奉行へ)御訴訟申し上げ、召喚状を頂戴しました。
その際、双方が立会い争っている山の絵図を作ること仰せ付けられたので、その意をうけ、絵図を作り指し上げました。
なにとぞ御慈悲御をもって吟味下されますよう、恐れながら願い上げ奉ります、詳細は左に申し上げ奉ります。
一、右の山境は、江の川の岸端にある、みそ谷下の木屋の先の
峯境からはじまり、それから飛渡、田代、日向山、空山、かす峠、大槙平空、
小鉄場の空、さらに挽谷山から、一の丸二の丸、八色石村の境までである。
山境は峯分け、水流を境とし、東北は幕府領である川本村、
西南は浜田領の因原村から分かれ、前々から大峯や水流を区切りとして
管理してきました。

因原村挽谷山につきましては、山役銀を一年に
百三匁二分五厘づつ、古来より納めて来ています。その上、
この山の内に、一石九斗七升六合の地高が設定されていることは、前々から松平周防守様
お役人中より下された検地帳などで明らかです。山峯より
西南に犬ヶ谷という名前の所はありません。宝永五子の年まで、
幕府領の川本村のお百姓の住居があったと、川本村が申している場所は、
先年、挽谷山の持主の浜田藩領の同国同郡井原村の
多郎右衛門と申す者の家来が山番人を置いていた場所で、
検地帳に二筆分の記載がある、下下畑三畝二十歩右一石九斗七升六合の内になります。

この場所を現在においても清五屋敷と言っています
ここの横手道の上下に生えている木を、度々伐採しては炭焼きをして、
挽谷鈩を経営してきたことに間違いございません
勿論この場所について争いになったことなどは存じ上げません。
一の丸・二の丸から八色石村の境まで、これも山の峯で境界を分け、
東北は川本村鋳物師山、西南は因原村の菅の谷山に青松というところがございます。
そして青松という鈩を経営している場所もございます。

古田大膳太夫様、松平周防守様が領主として支配されていた時から、
今に至るまで役銀を年ごとに百四十目上納し、立木が育つたびに、
炭焼きをして、たたら製鉄を経営してきました。昔から鈩を
始める度に山の峯まで立木を伐り取ってきましたが、これまで少しも
差し障りはございませんでした。しかし、今回川本村の方が同村の山内であると主張し、
特に一昨年は川本村の村民が大森代官の紹介状を持ち浜田藩の役所へ訴えました。
一ノ丸二ノ丸の境界については何の願いもなかったにもかかわらず、
右の山境について、今回書き出したことは、計略であると思われます。

一 大雪で通路が不自由な時、炭焼にお供はございません。
  梚谷山の持ち主である御料濱原村の幾六、濱田領因原村の与兵衛、
  右両人より申の年の八月、井原村の重右衛門は立ち木一生を
  売り渡し、同じ年の十月鈩を打ち付け、十月中頃から十一月中頃まで
  重右衛門より炭竃を打ち付け、日々炭焼をしておりました。

脚註[編集]


コメント[編集]

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