御留守之内公事裁許之留
提供:石見銀山領33ヵ寺巡り
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目録番号:A-22
担当:島根大学法文学部社会文化学科歴史と考古コース古文書ゼミ
目次
解説
代官不在の時、大森代官所にて裁いた民事訴訟の記録。 正徳2年(1712年)に16冊作成されたうちの1番とあるが、その他の15冊は見当たらない。 訴訟一件ごとに、次の順番に内容が記されている。 ①件名 ②原告の言い分 ③被告の反論 ④裁許の内容 ⑤証拠とされた文書(訴訟によってあったり、なかったり)
訴訟①文書画像・釈文・書き下し文
1枚目(全29枚の内)
正徳弐年 御留守之内公事裁許之留 正徳拾六冊之内 壱番 辰 三月
2枚目(全29枚の内)
大田町 梶屋三右衛門 相手同所 石橋市郎右衛門 田地質入出入 三右衛門申口 一四年以前丑暮田地質物ニ取半右衛門方銀六百四拾六匁貸 申候元利共ニ翌寅十一月限ニ不調候ハヽ質流ニ仕去卯春ゟ 三右衛門方へ田地請取申証文ニ候得共丑年之元銀計ニ而此度 請戻可申由ニ而寅卯両年利分少茂不調戻候様ニ申候而迷惑之由申候 市郎右衛門返答 一三右衛門ゟ丑暮借用銀此度元銀相立利銀ハ差延候而田地戻シ 候様ニ申候得共承引不仕候段々身上不相成田地売残右之 田地計ニ而渡世難義仕候間何とそ了簡被仰付元銀 計ニ而戻候様ニ願候由申候
大田町 梶屋三右衛門 相手同所 石橋市郎右衛門 田地質入出入 三右衛門申口 一四年以前 丑暮田地質物に取り 半右衛門方 銀六百四拾六匁貸し 申し候 元利共に翌寅十一月限りに調わず候はば質流れに仕り 去る卯の春より 三右衛門方へ田地請け取り申す証文に候えども 丑年の元銀ばかりにて此度 請け戻し申すべく由にて寅卯両年利分少しも調わず戻シ候様に申し候て迷惑の由申し候 市郎右衛門返答 一三右衛門より丑暮借用銀 此度元銀相立て利銀は差し延べ候て田地戻し 候様に申し候えども承引仕らず候段々身上相成らず田地売り残り右の 田地ばかりにて渡世難義仕り候間なにとぞ了簡仰せつけられ元銀 ばかりにて戻し候様に願い候由申し候
3枚目(全29枚の内)
右裁許 右出入双方遂吟味候処三右衛門方ゟ四年以前貸置候銀寅 卯両年共ニ利分少茂不調元銀計ニ而田地戻候様市郎右衛門 願候得共利分不調候共戻候様ニハ難申付候間田地ニ茂離迷惑 存候者証文之通元利相立田地請戻シ可申候作付時分ニ候間 若元利相立候事当分難成候ハヽ三右衛門方へ請取作付可仕候 去卯春ニさへ滞候得者請取筈ニ証文ハ相見江候得共元利 相立候ハヽ田地為戻可申旨庄屋嘉兵衛江茂申渡候三右衛門 所持証文之写如左 辰三月十八日 壱年限質入預リ申銀子之事 一丁銀六百四拾六匁定 但利分年中壱割五分 此質物坪付 此坪ハ南村之内山崎之内半分 一田高壱石七斗 坪ハせんたく 一畑高壱石 坪ハ同所 田畠合弐石七斗 右者当御年貢不相成ニ付壱年限質入右之銀子 慥預リ御公納仕候来年十一月限ニ急度銀子元利相 調可申候若其節銀子御調不相成候ハヽ右之質入之 田地質流シニ罷成候間卯春より御請取候而作付被
右裁許 右出入双方吟味を遂げそうろう処、三右衛門方より四年以前貸し置きそうろう銀、寅 卯両年共に利分少しも調わず、元銀ばかりにて田地戻しそうろう様に、市右衛門 願いそうらえども、利分調わずろうろうとも戻しそうろう様には申し付け難くそうろう間、田地にも離れ迷惑 に存じそうらはば、証文の通り元利相立、田地請戻し申すべくそうろう。作付時分にろうそう間 もし元利相立そうろう事、当分成り難くそうらはば、三右衛門方へ請け取り作付仕るべくそうろう 去る卯の春にさへ滞りそうらへば、請け取る筈に証文は相見えそうらえども、元利 相立そうらはば、田地戻させ申すべき旨、庄屋嘉兵衛えも申渡しそうろう。三右衛門 所持証文の写左の如し 辰三月十八日 壱年限り質入れ預り申す銀子の事 一丁銀六百四拾六匁定 但し利分年中一割五分 この質物坪付け この坪は南村の内山崎の内半分 一田高一石七斗 坪はせんたく 一畑高一石 坪は同所 田畠合わせて弐石七斗 右は当御年貢あい成らずに付き、一年限り質入れ、右の銀子 たしかに預かり御公納仕り候。来年十一月限りにきっと銀子元利あい 調え申すべくそうろう。もしその節銀子お調えあい成らずそうらわば、右の質入れの 田地質流しにまかり成りそうろう間、卯の春よりお請け取りそうろうて作付け成され
4枚目(全29枚の内)
成卯御年貢より其方可被相勤候尤其節別紙 証文ニ及不申候則此証文を以以来共其方抱所 可被成候其時少茂異儀申間敷候為後日加判を以 証文仕候所仍而如件 宝永六年丑ノ 十二月廿五日 預り人 石橋半右衛門 和田甚左衛門 庄屋嘉兵衛 梶屋三右衛門殿
卯御年貢より其の方あい勤めらるべくそうろう。尤もその節別紙 証文に及び申さずそうろうすなわちこの証文をもって以来ともそのほう抱所に なされるべくそうろうその時少しも異儀申すまじくそうろう後日のため加判をもって 証文仕りそうろう所よって件の如し 宝永六年丑の 十二月二十五日 預り人 石橋半右衛門 和田甚左衛門 庄屋嘉兵衛 梶屋三右衛門殿
訴訟②文書画像・釈文・書き下し文
訴訟人 延里村 弥右衛門後家 同娘たもん 跡式出入 相手 同村勘三郎 後家 娘 申分 一延里村弥右衛門実子無御座吉永村惣右衛門世忰勘三郎 と申者を養子ニ仕候其後弥右衛門娘出生仕たもんと 申候弥右衛門跡式ハ勘三郎ニ譲渡娘ニハ外之田地七斗 九升弐合前幷銀弐百四拾目譲申候右銀弐百四拾目 弥右衛門弟吉永村六左衛門と申者へ貸置六年之間 利銀少も調不申元利六百目ニ成六左衛門銀調之儀
訴訟人 延里村 弥右衛門後家 同娘たもん 跡式出入 相手 同村勘三郎 後家 九升二合前ならびに銀二百四目譲り申しそうろう。右銀二百四拾目 弥右衛門弟吉永村六左衛門と申す者へ貸し置き、六年の間 利銀少(すこし)も調(ととの)え申さず、元利六百目に成六左衛門銀調えの儀
訴訟①現代語訳
一七一二年 大森代官お留守の時の民事訴訟の書留 正徳年間一六冊之内の一番 辰三月 原告 大田町 梶屋三右衛門 被告 同所 石橋市郎右衛門 田地質入れの訴訟 三右衛門の申し立て 一、四年前の丑年の暮、田を借金の担保として半右衛門に銀六四五匁を貸しました。 元銀と利息共に翌年の寅十一月までに返す事が出来なければ質流れにして、 田は三右衛門の所有になるという証文だった。それなのに四年後、元金だけ返して 利息を払わずに田地を取り戻したいと言ってきたことは迷惑である。 市郎右衛門の返答 一、丑年の暮に借りた銀は、元銀だけ返して利子は猶予して田地を戻して欲しい、 と頼んだが三右衛門は承知しなかった。次第に私の家の経営が成り立たなくなり、 田地を売り払い、残りは三右衛門に担保として出した田地だけになってしまった。 難義なので、なんとか苦しい状況を理解していただき、元銀だけ返せば田地を戻して もらえるようにしてほしい。 右の判決 右の訴訟について両人の言い分を吟味した結果は以下の通り。四年前、田地を担保に三右衛門から借金をして、 寅卯両年利息が払えなかったにもかかわらず、元銀だけで田地を戻して欲しいとの市郎右衛門からの願いでについては、 利息を払っていないのに田地を返すようにとは申し付け難い。 田地を失うと困るのであれば、証文の通り元銀利息共に払って田地を返してもらうようにすべきである。 作付時にもし元金利息共に用意できなければ、三右衛門が田地を受け取り作付すること。 去年の春にも返金できなかったので、質流れにして田地は三右衛門の所有となるべきところであるが、 今からでも元金利息を払えば田地を取り戻す事が出来るように、庄屋嘉兵衛にも申し伝えた。 三右衛門が持っている証文の写しは左の通りである。 辰三月十八日 一年間のみ担保を預かって貸した銀子のこと 一丁銀は六百四十六匁とする ただし利子は年間一割五分である この担保となる土地の面積 この面積は大田南村の中にある山崎という場所 の半分である 一田高は一石七斗 面積はせんたくと同じ 一畑高は一石 面積はせんたくと同じ 田畠合わせて二石七斗である 銀子を借りたのは、その年に納める年貢が用意できないためであり、一年間だけ担保を預け、担保分の銀子を確かに受け取り、年貢を納めている。 来年の十一月まで に、必ず銀子の元金と利子を両方そろえて返しなさい。もしその期限までに元金と利子をそろえて返すことができなければ、 預けた担保の田地は質流しになるので、卯年の正月から三右衛門が受け取って作付けをし、卯年の年貢から三右衛門が納めるようにしなさい。 もっとも、その時(質流れになる時)に別紙の証文を作成するには及びません。 つまり、この証文を証拠に、その時(質流れになって)からあなた(三右衛門)の所有地になさってください。 その時私(石橋半右衛門)は少しも異議は申しません。 これ以降、何か起こった時の為に、押印を加え、この証文が正しいとすることは以上の通りである。 宝永六年丑 十二月二十五日 預り人 石橋半右衛門 和田甚左衛門 庄屋嘉兵衛 梶屋三右衛門殿
5枚目(全29枚の内)
不罷成質物書入置候かけと申田壱反質流ニ弥右衛門 方へ相渡申候ニ右田地請取可申と申候得ハ元銀弐百四拾目 勘三郎方より出シ田地ハ勘三郎取可申と申候 一母隠居江苅申候薪之義入相ニ苅候得と弥右衛門 申置候得共山引わけ少くれ申候ニ付母薪無之迷惑仕候由申候 勘三郎返答 一たもん義妹之事ニ御座候得者色々介抱仕縁ニも付申候 得共不所存ものニ而罷居不申方々と流浪仕候弥右衛門 譲置候義ニ御座候得ハ弐百四拾目之銀ニ当年之利足 を加相渡可申由申候 右遂吟味候処弥右衛門譲状慥ニ有之候得者田地七斗 九升弐合并銀弐百四拾目たもん取候義ハ勿論之事ニ候 然ニ右銀弐百四拾目伯父六左衛門ニ貸置元利六百目ニ成 返弁不相成質物之田地質流ニ六左衛門相渡候由右田地者 勘三郎方ヘ取之たもん方ヘハ弐百四拾目之銀ニ当年壱年之 利足を加銀ニ而可相渡由勘三郎申候段難心得候弐百四拾め 之代ニ質流ニ成候田地ニ候得ハ其田地を直ニたもん方ヘ相渡 可申候并右田地当年之作徳米三俵半有之由是又 たもん方ヘ可相渡候 一薪山之義譲状ニ無之候得ハ聢申付ハ難成候得共
まかり成らず質物書き入れ置きそうろうかけと申す田一反質流れに弥右衛門 方へあい渡し申しそうろうに、右田地請け取り申すべしと申しそうらえば、 元銀二百四拾目勘三郎方より出し、田地は勘三郎取り申すべくと申 しそうろう。 一母隠居え苅り申しそうろう薪の義、入りあいに苅りそうらえと弥右衛門 申し置きそうらえども、山引きわけ、少しくれ申しそうろうに付き、母薪これ無く、迷惑仕りそうろう由申しそうろう。 勘三郎返答 一たもん義、妹の事にござそうらえば、色々介抱仕り、縁にも付け申しそうらえども、 不所存ものにて、まかり居り申さず、方々と流浪仕りそうろう。弥右衛門 譲り置きそうろう義にござそうらえば、二百四拾目の銀に当年の利足 を加え、あい渡し申すべき由申しそうろう。 右吟味遂げそうろう処、弥右衛門譲り状たしかにこれ有りそうらえば、田地七斗 九升弐合ならびに銀弐百四拾目、たもん取りそうろう義は勿論の事にそうろう。 然るに、右銀弐百四拾目、伯父六左衛門に貸し置き元利六百目に成り、 返弁あい成らず、質物の田地質流れに六左衛門あい渡しそうろう由、右田地は 勘三郎方へこれを取り、たもん方へは弐百四拾目の銀に当年壱年の 利足を加え、銀にてあい渡すべき由、勘三郎申しそうろう段、心得がたくそうろう。弐百四拾め の代に質流れに成りそうろう田地にそうらえば、その田地を直ちにたもん方へあい渡し 申すべくそうろう。ならびに、右田地当年の作徳米三俵半これ有る由、これまた たもん方へあい渡すべくそうろう。 一薪山の義譲り状にこれ無くそうらえばしかと申し付けは成り難くそうらえども
6枚目(全29枚の内)
親之義ニ候得ハ母一代之分ハ薪不自由無之様ニ為 苅可申旨申付之譲状如左 以上 卯十一月廿七日 譲申田畠銀子之事 一田高弐斗六升 坪ハ大廻 一田高弐升 坪ハ大かミいわ 一田高壱斗壱升 坪ハおいご 一畑高四斗弐合 坪ハおいこ次右衛門分 田畑合七斗九升弐合 外 一丁銀弐百四拾目 右之田畠并銀子ゆつり申所実正紛無御座候我等 共夫婦相果申以後無相違其方江請取可申候 我等共存命之内若借銀出来申候ハハ勘三郎方江 譲申田畠江懸ケ可申候縦銀少ニ而もたまり申候ハゝ 是又勘三郎方江ゆつり申候我等共相果申以後 若又たもんニ子共無是候而相果申候ハゝ右田畠并 銀子無相違勘三郎方江請取可申候為後日譲状
親の義にそうらえば母一代の分は薪不自由これ無きように 苅り申すべき旨申し付けの状左の如し 以上 卯十一月廿七日 譲り申す田畠銀子の事 一田高二斗六升 坪は大廻 一田高弐升 坪は大かみいわ 一田高壱斗壱升 坪はおいご 一畑高四斗弐合 坪はおいこ次右衛門分 田畑合わせて七斗九升弐合 外 一丁銀弐百四拾目 右の田畠ならびに銀子ゆつり申す所実正紛れ御座無くそうろう、我等 ども夫婦相果て申し以後相違い無くその方へ請け取り申すべくそうろう 我等ども存命の内若しくは借銀出来申しそうらわば勘三郎方へ 譲り申す田畠へ懸け申すべくそうろう、たとい銀少しにてもたまり申しそうらわば これまた勘三郎方へゆつり申しそうろう。我等どもあい果て申す以後、 もしまたたもんに子どもこれ無くそうろうて相果て申しそうらわば右田畠ならびに 銀子相違無く勘三郎方へ請け取り申すべくそうろう、後日のため譲状
7枚目(全29枚の内)
仍如件 譲り人親 元禄二年卯 弥右衛門 六左衛門 太兵衛 庄屋 善兵衛 たもんとの
よって件の如し 譲り人親 元禄二年卯 弥右衛門 六左衛門 太兵衛 庄屋 善兵衛 たもんとの
訴訟③文書画像・釈文・書き下し文
東用田村三左衛門女たる 相手野井村伊兵衛 譲田地出入 三左衛門女たる申口 父親者野井村庄兵衛申与百姓男子無御座伊兵衛養子ニ仕 姉と夫婦ニ仕 庄兵衛家督相続為仕候 庄兵衛相果候而者 伊兵衛儀母江之心入不宜ニ付 母者隠居仕三左衛門方江引取 十ヶ年以来致養育 去九月母相果申候 母隠居分ニ本家 伊兵衛ゟ田三石壱斗前永々母方江相渡置候証文取替シ 証人庄屋頭百姓加判之手形を以 三左衛門方江作配仕来候 右田地之外ニ母一代者壱ヶ年ニ米五俵宛相渡申筈ニ 証文仕候得共 米者相滞度々母腹立仕候事 一 庄兵衛田地之内田壱石八斗七升之所伊兵衛ゟ母方江買取 証文所持仕候右証文弐通之田地母ゟ私江譲状相渡 裁判仕候処母相果候砌ゟ伊兵衛段々我侭申懸剰当
東用田村三左衛門女たる 相手野井村伊兵衛 譲る田地出入 三左衛門女たる申し口 父親は野井村庄兵衛と申す百姓男子ござなく、伊兵衛養子に仕り、 姉と夫婦に仕り、庄兵衛家督相続仕らせそうろう。庄兵衛相果てそうろうては 伊兵衛儀母への心入れ宜からざるに付き母は隠居仕り三左衛門方へ引き取り 十ヶ年以来養育致し、去る九月母相果て申しそうろう。母隠居分に本家 伊兵衛より田三石壱斗前永々母方へ相渡し置きそうろう証文取替わし 証人庄屋頭百姓加判の手形をもって三左衛門方へ作配仕りそうろう。 右田地のほかに母一代は壱ヶ年に米五俵ずつ相渡し申すはずに 証文仕りそうらえども、米は相滞り度々母腹立て仕りそうろう事。 一 庄兵衛田地の内 田一石八斗七升のところ 伊兵衛より母方へ買い取り 証文所持仕りそうろう 右証文二通の田地 母より私へ譲状相渡し 裁判仕りそうろうところ 母相果てそうろう砌より 伊兵衛段々我がまま申し懸け あまつさえ当
訴訟②現代語訳
原告 延里村 弥右衛門の後家 同娘たもん 被告 同村勘三郎 家の相続をめぐる訴訟 後家と娘の申し立て 一、延里村の弥右衛門には実子がいないので、吉永村の惣右衛門の息子勘三郎という者を養子にいたしました。 その後弥右衛門に娘が出生いたしまして、たもんと申します。 弥右衛門の家の財産は勘三郎に、娘には外の田地七斗九升二合前と銀二百四十目を譲り渡すことにいたしました。 右の銀二百四十目は、弥右衛門の弟で吉永村の六左衛門と申す者へ貸していましたが、 六年の間利息をすこしも返そうとせず、元金と利息合わせて六百目になりました。 六左衛門は借金を返すことが出来ないため担保に書き入れかけという田を一反弥右衛門方(勘三郎)へ渡しました。 右の田地を請け取りますと後家(と娘のたもん)は申しましたが、元銀の二百四十目を勘三郎の方から出し、 田地は勘三郎が取ると(勘三郎は)申しました。 一、母の隠居分である山から刈る薪については、相互に利用しなさいと弥右衛門が申していました。 ところが、勘三郎は山を分けてしまい、少しだけを母に渡したので、母の刈る薪が無く迷惑していると申しています。 勘三郎の返答 一、たもんについては、私の妹でございますので、色々と世話をしてきましたし、結婚もさせました。 ところが、彼女は不心者で、嫁ぎ先の家にはおらず、あちらこちらへ流浪していました。 (銀については)弥右衛門が彼女に譲っていたものでございますので、 二百四十目に今年の利息を加えたものを、渡すことにしたいと主張しています。 右の件の吟味の結果は以下の通り。弥右衛門の遺産相続書が確かに存在するので、 田地七斗九升二合および銀二百四十目をたもんが相続することは、当然のことである。 そうであるのに、右の銀二百四十目を伯父の六左衛門に貸しておいたところ、元金利息が六百目になり、 (六左衛門は)返済することができす、担保の田地を質流れにして六左衛門が渡してきたとのことで、 右の田地を勘三郎の方が相続し、たもんの方へは二百四十目の銀に今年一年の利息を加え、 銀で渡すつもりだとの勘三郎の主張は、承知しがたい。 二百四十目の代わりに質流れになった田地であるので、その田地をすぐにたもんの方へ渡し申すべきである。 ならびに、右の田地の今年の地主取り分の米が三俵半あるため、これもまた、たもんの方へ渡すべきである。 一薪山のことは譲り状に書いてないのではっきりとした申し付けは難しいが 親であるので母一代の分は薪を不自由のないように 苅らせ申すべきことを申し付けている。譲り状は左の通り。 以上 卯十一月二十七日 譲り申す田畠銀子の事 一田高二斗六升 坪は大廻 一田高弐升 坪は大かみいわ 一田高壱斗壱升 坪はおいご 一畑高四斗弐合 坪はおいこ次右衛門の分 田畑合わせて七斗九升弐合 外 一丁銀弐百四拾目 右に記す田畠ならびに銀子を譲ることは確かに間違いありません。私たち 夫婦が亡くなった後、間違いなくあなたへ受け取ってもらうこととします。 私たちが生きている内にもし借銀が出来たら、(その負担は)勘三郎へ 譲る田畠へ懸けるようにします。たとえ銀が少しでもたまったならば これも勘三郎方へ譲ります。私たちが亡くなった後 もしたもんに子どもがいなくて亡くなったら、右に記す田畠ならびに 銀子は間違いなく勘三郎方に受け取らせることにしますし、後日のための譲り状は 以上の通りです。 譲り人親 元禄二年 卯 弥右衛門 六左衛門 太兵衛 庄屋 善兵衛 たもんどの
8枚目(全29枚の内)
二月初苗代打懸候ニ付驚入早速地下役人中江相断 申咎被申付候得共承引不仕迷惑仕候由 伊兵衛返答 親庄兵衛弐拾四年以前巳年私江家督譲相果申候、 十五年跡寅四五月之比、母私と致義絶、同年一二月ニ 母と出入仕、井口治右衛門様段々御聞届被遊母は隠居 を為建相応ニ扶持方為相渡候様ニ与地下役人被仰渡、 私方より田地ニ而高壱石壱斗之所相渡置申候、庄兵衛より 私へ譲候田地御座候得共母果候而ハ私田地ニ紛無御座候 并米五俵宛毎年母江渡候儀私娘かやと申候、 此かや母養育可仕候間、其飯米衣類ニ茂可仕与申に付相渡申候、弐三年茂不渡儀者 娘かや私方へ戻シ置候ニ付渡不申候得共、母申分無御座候。 一田壱石八斗七升之所三左衛門銀子借用仕母買候由是ハ私 田地下作米弐拾四俵三斗五升理不尽ニ母取代銀壱貫め 程所持仕ニ付母江右之田売分ニ仕直段安ク銀請取 申候元来私田地下作米之内ニテ母買申候故三左衛門 女方ヘ渡申筈無御座候右弐通之証文ヲ取工ニ而 母を引取地利米拾弐年之間ニ三拾六俵三左衛門方ヘ 引取養育仕候三左衛門女所持仕候譲証文嘉兵衛 親源右衛門筆者ニ而弥兵衛加判之由難心得候私并 庄兵衛弟六郎右衛門勿論地下役人判形御座有間敷候
二月初め 苗代打ち懸けそうろうニ付き 驚き入り 早速地下役人中へ相断 申し咎め 申し付けられそうろうえども 承引仕らず 迷惑仕りそうろう由 伊兵衛返答 親庄兵衛弐拾年以前巳年私へ家督譲り相果て申しそうろう、 十五年あと寅四、五月のころ母私と義絶致し、同年一二月に 母と出入り仕り、井口治右衛門様段々お聞き届け遊ばされ母は隠居 を建たせ、相応に扶持方相渡させそうろう様にと地下役人仰せ渡せられ、 私方より田地にて高壱石壱斗の所相渡し置き申しそうろう、庄兵衛より 私へ譲りそうろう田地に御座そうらえども、母果てそうろうては私田地に紛れ御座無く 并びに米五俵ずつ毎年母へ渡しそうろう儀、私娘かやと申しそうろう、このかや母養育仕るべく そうろう間、その飯米衣類も仕るべしと申すに付き相渡しそうろう、弐三年も渡さざる 儀は、娘かや私方へ戻し置きそうろうに付き渡し申さずそうらえども、母申し分御座無くそうろう。 一田壱石八斗七升の所三左衛門銀子借用仕り母買いそうろう由、 これは私田地下作米弐拾四俵三斗五升理不尽に母取り、代銀壱貫め程所持 仕りに付き、母へ右の田売り分けに仕り、直段安く銀請け取り申しそうろう、 元来私田地下作米の内にて母買い申しそうろうゆえ、三左衛門女方へ渡し申す筈 御座無くそうろう、右弐通の証文を取そうろう工みにて 母を引き取り、地利米拾弐年の間に三拾六俵三左衛門方へ引き取り 養育仕りそうろう三左衛門女所持仕りそうろう譲り証文、嘉兵衛 親源右衛門筆者にて弥兵衛加判の由心得難くそうろう、私并びに 庄兵衛弟六郎右衛門勿論地下役人判形御座有るまじくそうろう、
9枚目(全29枚の内)
親庄兵衛より私請取候田地母飯米ニ渡申所三左衛門女 渡候事迷惑之由殊に田高四石弐斗程之内三石斗 渡候而者庄兵衛跡式立不申候由申候 右裁許 右出入双方遂吟味候処母ゟ娘三左衛門女江之譲状仕候 弐通之証文壱通ハ本家伊兵衛ゟ母方ヘ永々隠居分ニ 相渡候与有之候壱通ハ伊兵衛ゟ母方江買取候証文 弐通共ニ地下人加判有之候。譲状茂野井村頭百姓嘉兵衛 親源右衛門子五郎四郎書候由則五郎四郎義罷出候。無紛由申 加判仕候 弥兵衛茂罷出母ゟ娘三左衛門女へ譲候に無紛由申候 尤譲状ニ庄や五右衛門加判無之段難心得由相手伊兵衛 申候得共譲渡候田地証文弐通共ニ母分ニ無紛殊 伊兵衛者養子聟ニ而本家附相渡母者致隠居 娘三左衛門女方ヘ十ヶ年以前ゟ本家引退娘方ニ而致養育 相果候得者実子娘ニ者譲渡候ニ無紛相見江候母相 果候とても右田地本家伊兵衛方ヘ可取様無之候間 証文之通三左衛門女方ヘ渡候様ニ申付候証文之写如左 辰三月廿一日 取替申証文之事 一母人為隠居面与坪ハ畑ヶ田之内高壱石壱斗
親庄兵衛より私請取りそうろう田地、母へ飯米に渡し申し所、三左衛門女へ 渡しそうろう事迷惑の由、殊に田高四石弐斗程の内三石斗 渡しそうろうては庄兵衛跡式立ち申さずそうろう由申しそうろう、 右裁許 右出入双方吟味を遂げ候処、母より娘三左衛門女への譲り状仕りそうろう 弐通の証文、壱通は本家伊兵衛より母方ヘ永々隠居分に 相渡しそうろうと之有りそうろう、壱通は伊兵衛より母方ヘ買取そうろう証文、 弐通共に地下人加判之有りそうろう、譲り状も野井村頭百姓嘉兵衛。 親源右衛門、子五郎四郎書きそうろうよしすなわち五郎四郎義罷り出で、紛れ無きよし申し 加判仕りそうろう、弥兵衛も罷り出、母より娘三左衛門女へ譲りそうろうに紛れ無きよし申しそうろう 尤も譲り状に庄や五右衛門加判これ無き段心得難き由相手伊兵衛 申しそうらえども、譲り渡しそうろう田地証文二通共に母分に紛れ無く、殊に 伊兵衛は養子聟にて本家附き相渡し、母は隠居致し、 娘三左衛門女方へ十ヵ年以前より本家引き退き、娘方にて養育致し 相果てそうらえば、実子娘には譲渡しそうろうに紛れ無く相見えそうろう、母相 果てそうろうとても、右田地本家伊兵衛方へ取るべき様これ無くそうろう間、 証文の通り三左衛門女方へ渡しそうろう様に申し付けそうろう。 証文の写し左の如し。 辰三月廿一日 取り替わし申す証文の事 一母人隠居面として坪は畑ヶ田 高一石一斗
10枚目(全29枚の内)
之場所七俵かけ永々相渡申所紛無御座候并 母人御壱代米五俵宛毎年相渡可申候為其 加判ヲ以一札取替申所仍而如件 元禄拾弐年卯 本人 伊兵衛 九月十五日 証人 六郎左衛門 〃忍原村 七郎左衛門 〃野井村 助右衛門 〃用田村 安立寺 頭百姓 長左衛門 同 弥右衛門 庄屋 五右衛門 母人さま 三年毛本物返シ売渡申田事 一田壱石八斗七升之所坪は一町田 右は卯ノ御役目不相成ニ付辰年ゟ午ノ年迄 三年毛代銀六百目請取御納所仕候処紛無御座候 三年ニ当午暮本銀御調申候ハヽ無相違御返シ 可被下候若本銀少も不足仕候か返り手形分失 仕候ハヽ此手形ヲ以末代其方之御抱所ニ可被成候
の場所七俵かけ永々あい渡し申すところ紛れなくござそうろう ならびに 母人お一代米五俵ずつ毎年あい渡し申すべくそうろう そのため 加判をもって一札取り替わし申す所よってくだんのごとし 元禄十二年卯 本人 伊兵衛 九月十五日 証人 六郎左衛門 〃忍原村 七郎左衛門 〃野井村 助右衛門 〃用田村 安立寺 頭百姓 長左衛門 同 弥右衛門 庄屋 五右衛門 母人さま 三年も本物返し売渡し申す田の事 一田壱石八斗七升の所坪は一町田 右は卯の御役目あい成らざるに付、辰年より午の年まで 三年も代銀六百目請取り御納所仕りそうろうところ紛れ御座なくそうろう。 三年に当午暮本銀御調申そうらわば相違無く御返し 下さるべくそうろう。もし本銀少しも不足仕りそうろうか返り手形分失 仕りそうらわば此の手形をもって末代其方の御抱所に成さるべくそうろう
11枚目(全29枚の内)
其時我ホハ不及申子々孫々ニ至迄出入申者 御座有間敷候為後日一札仕進申所仍而 如件 元禄拾弐年卯十二月廿四日 理兵衛 六郎右衛門 弥兵衛 助右衛門 源右衛門 長左衛門 弥右衛門 五右衛門 はヽいさま 譲申田地之事 一、田壱石壱斗 坪ハ畑ヶ田 一、同壱石八斗七升 坪ハ一町田 右之田地我等相果申候ハヽ二通之証文ヲ以 永々共ニ其方へ裁判可被申候其時少茂 異儀申者有之間敷候為後日いつり手形 仍而如件 元禄十六年未十二月 坂根庄兵衛後家 はヽい 証人 弥兵衛 おたるどの
其時我らは申すに及ばず子々孫々に至るまで出入申すは 御座有るまじくそうろう。後日のため一札仕り進め申す所依って件の如し 元禄拾弐年卯十二月廿四日 理兵衛 六郎右衛門 弥兵衛 助右衛門 源右衛門 長左衛門 弥右衛門 五右衛門 はヽいさま 譲り申す田地の事 一、田壱石壱斗 坪は畑ヶ田 一、同壱石八斗七升 坪は一町田 右の田地、我ら相果て申しそうらわば、二通の証文をもって、 永々共にその方へ裁判申さるべくそうろう。その時少しも 異議申す者これ有るまじくそうろう。後日のため、いつり手形 よってくだんのごとし。 元禄十六年未十二月 坂根庄左衛門後家 はヽい 証人 弥兵衛 おたるどの
訴訟③現代語訳
東用田村三左衛門女たる 田地の相続をめぐる訴訟 被告 野井村 伊兵衛 三左衛門女たるの申し立て 私の父親は野井村の庄兵衛という百姓で男子がいなかったため伊兵衛を養子にして、 姉と夫婦にし、(庄兵衛は)家督を(伊兵衛に)引き継がせました。 庄兵衛が亡くなってからは伊兵衛の母に対する気遣いがよろしくなく母は隠居したため、 三左衛門方に引き取り十年間ずっと養育しましたが、去年の九月に母は亡くなりました。 母の隠居分として本家の伊兵衛より田三石壱斗ほどを永く母方に渡しておくという証文を取り替わし、 証人である庄屋・頭百姓の加判の手形にもとづいて三左衛門の方で管理してきました。 右の田地のほかに母が生きている間は一年につき米五俵ずつを渡すことにするという 証文を作成していましたが、米は滞っていて度々母は腹を立てていました。 一、庄兵衛が所有しておりました田地の内、田一石八斗七升分を伊兵衛から母が買い取り、 (母が)証文を所持いたしておりました。その証文二通にある田地についての譲り状を、母が私へ渡したので、 この田地は(私が)支配いたしておりました。ところが、母が亡くなった頃より、伊兵衛が段々我がままを言いだし、 とうとう、この二月初めには(その田の)苗代づくりを始めましたので、わたくしは驚いてしまい、 早速村役人へ告げた結果、伊兵衛に対し、村役人に注意してもらいましたが、伊兵衛は承知しませんでしたので、 私は迷惑いたしているという次第です。 伊兵衛の返答 私の親の庄兵衛は、今から二十四年前の巳年に私へ家督を譲り、亡くなりました。 それから一五年経った寅年の四、五月の頃に母は私と義絶し、同じ年の一二月には 母と私は裁判で争うことになりました。(この訴訟は)井口治右衛門様が段々と吟味をなされた結果、 母には隠居家を建て、相応の扶持を渡す ようにと、村役人から言い渡されましたので、 私の方から田地高一石一斗を母に渡すことになりました。 庄兵衛から私へ譲られた田地ではございますが、母が亡くなれば、紛れもなく私の田地となるはずです。 それから毎年母に米を五俵ずつ渡していたのは、私にはかやという名の娘がおりますが、 このかやが母を養育していたので、彼女の食事や衣類の費用に充てるためでした。 ニ、三年も渡さなかったのは、娘のかやが私の方へと戻ってきたためです。 この件について母からは不服申し立てはありませんでした。 一(原告は)田壱石八斗七升については、三左衛門から銀子を借用して買ったと 申しています。これは、私の田地の下作米(小作米)二十四俵三斗五升を理不尽に 母が取り、それで代銀一貫目程を持っていましたので、母に右の田を売り分け、 安い値段で銀を受け取りました。本来、私の田地の下作米をもとに、母が買ったものですので、 三左衛門の妻に渡す筋合いはございません。右の二通の証文を得るたくらみで母を引き取り、 地利米を十二年の間に三十六俵、三左衛門はうけ取り母を養育してきました。 三左衛門の妻が(=たる)所持している田地の譲り証文は、 嘉兵衛の親の源右衛門が筆者であり、弥兵衛が加判しているとのことですが、理解しがたいことです。 私(=伊兵衛)ならびに義父の庄兵衛の弟の六郎右衛門は言うまでもなく、村の役人の印判が押してあるはずはございません。 親の庄兵衛から私が受け取った田地を、母の飯米に充てるために渡したのですが、 この田地を三左衛門の女に渡すのは迷惑なことです。とりわけ田高四石弐斗程のうち三石余を渡してしまうと、 庄兵衛の家を相続するということが成り立ちませんと、(伊兵衛は)主張しています。 右の訴訟の判決 右の件の吟味は以下の通り。母から娘である三左衛門の妻(たる)宛ての譲り状があり、 証文二通が譲られている。一通の証文は本家の伊兵衛が母にずっと隠居分を渡すというもの。 もう一通は伊兵衛から母が田地を買い取った証文であり、二通とも村人の加判がある。母から娘である三左衛門の妻(たる)への譲り状も、 野井村の頭百姓である嘉兵衛の親である源右衛門の子の五郎四郎が書いたとのことである。 このことについては、五郎四郎が参上して相違ないと証言し加判している。 弥兵衛も参上して、母が娘である三左衛門の妻(たる)に田地を譲り渡したことは紛れもない事実であると述べている。 ただし、譲り状に庄屋の五右衛門の判が押されていない点は納得し難いと相手伊兵衛は主張しているが、 譲り渡した田地に関する証文は二通ともに母によるものに間違いない。 特に、伊兵衛は婿養子であって、本家に付属する財産は渡されており、母は隠居した後、 娘である三左衛門の妻のもとで十年前より養育されて亡くなったので、実子の娘(=たる)に譲り渡したことは間違いないように思える。 母が亡くなったからといって、右の田地を本家の伊兵衛の方が取り戻す筋合は無いので、 証文の通り、三左衛門の妻(=たる)方へ田地を渡すように申し付けた。 証文の写しは左の通りである。 辰三月二十一日 お互いに取り交わして契約する証文 一、お母様の隠居のための資産として、畑ヶ田という石高が一石一斗の場所から、七俵かけをずっとお母様に間違いなくお渡しします。 またお母様一代の間は毎年五俵ずつお渡しします。以上の要件のため此の証文を作成捺印しお互いに取り交わします。 元禄十二年卯 本人 伊兵衛 九月十五日 証人 六郎左衛門 〃忍原村 七郎左衛門 〃野井村 助右衛門 〃用田村 安立寺 頭百姓 長左衛門 同 弥右衛門 庄屋 五右衛門 母人さま 三年で元金を戻せば返してもらえる売渡した田の事 一 田は壱石八斗七升の所で坪は一町田 今年卯の年に年貢を納めることができないので、辰年から午年の三年間の約束であなたから六百目借りて納入することにしたのは間違いのない事です。 三年たって午の暮に元銀を準備できたら間違いなく一町の田を返して下さい。 もし準備できないとか、返り手形を分失したとかならばあなたがこの土地を管理してかまいません。 その時は、私達は勿論子々孫々に至るまで文句を言う者はおりません。後日のためにこの証文を作成しておきます。記したとおりです。 元禄十二年卯十二月二十四日 理兵衛 六郎右衛門 弥兵衛 助右衛門 源右衛門 長左衛門 弥右衛門 五右衛門 はヽいさま 譲ることになっている田地の証文 一、田は壱石一斗 坪は畑ヶ田と同じ 一、同じく田は壱石八斗七升 坪は一町田と同じ 右に書かれた田地は、私が亡くなったならば、二通の証文に基づき、 永久に両方とも、あなたが支配するのがよいでしょう。その時、異議を唱える 者は少しもいないでしょう。後々のために譲り手形はこのようになります。 元禄十六年未十二月 坂根庄左衛門後家 ははい 証人 弥兵衛 おたるどのへ
訴訟④文書画像・釈文・書き下し文
12枚目(全29枚の内)
九日市村伊兵衛 質入田地出入 相手同村惣右衛門 伊兵衛申口 一 九日市村治兵衛ゟ少々之借用銀利銀積り治兵衛 世忰作兵衛惣右衛門時分ニ成畑山質物ニ書入銀調 候得者何時ニ而茂畑山戻シ申筈ニ御座候ニ付去卯 暮銀持参仕請戻シ度由申候得共戻シ不申迷惑之由 右裁許 右出入双方遂吟味候処丑年壱ヶ年限ニ請戻不申 寅卯両年当辰共ニ三ヶ年延候ニ付質流之由 申候得共寅卯弐年過候積壱ヶ年限之本物 返と存伊兵衛ゟ本銀相立候ハヽ請戻させ候様申渡 九日市村伊兵衛 質入田地出入 相手同村惣右衛門 伊兵衛申し口 一 九日市村治兵衛より少々の借用銀利銀積り、治兵衛 世忰作兵衛惣右衛門時分に成り畑山質物に書き入れ、銀調え そうらえば、何時にても畑山戻し申す筈にござそうろうに付き、去る卯 暮銀持参仕り請戻したき由申しそうらえども、戻し申さず迷惑の由 右裁許 右出入双方吟味遂げそうろう処、丑年壱ヶ年限りに請戻し申さず、 寅卯両年当辰共に三ヶ年延びそうろうにつき、質流れの由 申しそうらえども、寅卯弐年過ぎそうろう積り、壱ヶ年限りの本物 返しと存じ、伊兵衛より本銀あい立てそうらわば、請戻させそうろう様申し渡す、
13枚目(全29枚の内)
証文写如左 辰四月六日 本物戻し質物ニ書入申畑方山之事 一畑六斗前之所日ノ谷中平無残 此代合丁銀百弐拾七匁六分定 右者年々御納所不相成ニ付右之畑来丑十月切ニ質物ニ 書入銀子慥ニ請取銀上納仕候所実正ニ御座候来丑 十月切ニ右之本銀御調申候ハゝ質物無相違御戻シ可被下候 若銀子支度不相成候ハゝ右之畑方山其方へ相渡シ 可申候為後日証人以加判仍如件 宝永五年子十二月十日 本人かい崎 伊兵衛 証人 七郎右衛門 頭百姓 弥右衛門 柚之木 惣右衛門殿 作兵衛殿
証文写し左の如し 辰四月六日 本物戻し質物に書き入れ申す畑方山の事 一、畑六斗前の所、日ノ谷中平残り無く この代合わせて丁銀百弐拾七匁六分に定む 右は年々御納所あい成らざるにつき、右の畑来る丑十月切りに質物に 書き入れ、銀子たしかに請け取り、銀上納仕りそうろう所、実正にござそうろう、来る丑 十月切りに右の本銀お調え申しそうらはば、質物相違無くお戻し下さるべくそうろう、 もし銀子支度あい成らずそうらはば、右の畑方山その方へあい渡し 申すべくそうろう、後日のため、証人加判をもってよって件のごとし。
訴訟④現代語訳
九日市村伊兵衛 担保に入れた田地をめぐる訴訟 相手同村惣右衛門 伊兵衛の主張 一、(私は)九日市村の治兵衛から少々の借金をし、その利子が増えたので、治兵衛の息子である作兵衛と惣右衛門の代になって、 (私の持っていた)畑山を担保とし て(証文に)記入しました。借金の返済準備ができたなら、 いつでも(担保となっている)畑山を返すというはずでございましたので、去年の卯年の暮に(惣右衛門のもとへ)返済金を持っていき、 (畑山を)返して欲しい、ということを告げましたが、返してもらえないことを迷惑に思っております。 右の判決 右の訴訟について、両人の言い分を吟味した結果は以下の通り。(惣右衛門は、)借金の返済期限を一年としていたが返済が無く、 三年過ぎたために担保が流れたと言 っている。しかし、寅卯の三年が過ぎたとはいえ、 一年限定の本物返し(元本返済次第請け戻し)という契約条件であると判断している。 したがって、伊兵衛の方で本銀が払えるならば、返済させて担保を返すようにせよ、と申し渡した。証文の写しは左の通りである。 辰四月六日 本物戻しという条件で借金の担保に書き入れる畑方山のこと 一、 畑六斗前について日ノ谷中平の全部 この代金を合わせて丁銀百二十七匁六分に定める 右は年々、年貢を納めることができないため、右に記す畑を来る丑十月を返済期限として担保に書き入れ、 銀子を確かに受け取り、銀を(年貢として)上納しますことは確かなことでございます。 来る丑十月までに右に記した本銀を準備できたならば、担保の畑方山を間違いなくお戻し下さい。 もし銀子の準備ができないならば、右の畑方山はあなた方へお渡しします。後日のため、証人の押印を加えておきます。 以上の通り。
訴訟⑤文書画像・釈文・現代語訳
14枚目(全29枚の内)
15枚目(全29枚の内)
訴訟⑥文書画像・釈文・書き下し文
16枚目(全30枚の内)
弥兵衛返答 大田南村市右衛門ゟ弐拾年以来指引残戌暮迄元利 丁銀壱貫三百五拾目私預リ手形仕候様ニ申ニ付田地 質入手形相渡申候不仕合ニ罷成候故銀子一度ニ調候儀 不相成候間年賦ニ仕候歟田地請取申候ハ﹅作徳米 壱斗ニ買候様ニ申候得共壱斗七升ニ渡候様ニ申迷惑仕候 何とそ作徳米壱斗ニ合候様ニ仕田地請取候様ニ願候由申出候
弥兵衛返答 大田南村市右衛門より弐拾年以来指し引き残り、戌暮れまで元利 丁銀壱貫三百五拾目、私預り手形仕り候様に申すにつき、田地 質入手形相渡し申し候、不仕合に罷り成り候故、銀子一度に調え候儀 相成らず候間、年賦に仕り候歟、田地請け取り申し候はば、作徳米 壱斗に買い候様に申し候えども、壱斗七升に渡し候様に申し迷惑仕り候、 何とそ作徳米壱斗に合せ候様に仕り、田地請け取り候様に願い候由申し出候
17枚目(全29枚の内)
18枚目(全29枚の内)
訴訟⑥現代語訳
弥兵衛返答 大田南村市右衛門から、二十年間にわたる(借り入れの)差し引きの残りが戌の暮れまでの分で元利丁銀一貫三百五十目になるので、 私に預り証文を作成するように言 ってきました。これをうけて、田地を担保に入れた証文を渡しました。 しかし、経営難に陥りましたために、銀子を一度に用意するということができなくなりましたので、 年賦で支払うようにするか、田地を(市右衛門が)受け取るならば、作徳米を一斗にした計算で買うように言いましたけれども、 一斗七升とするように(市右衛門が)申してくるので迷惑しております。 どうか作徳米一斗の計算で、田地を買い取るよう取り計らいをお願いしたいと申します。
訴訟⑦文書画像,釈文、書き下し文
19枚目(全29枚の内)
四月廿七日之裁許 布川兵右衛門 柑子谷泉山水抜 山主 吉原理兵衛 原田善兵衛 岩ヶ廻鉉水抜切 竹下安左衛門 水打かい出入 甘南備山 相手大谷 山主 矢野九左衛門 栗木山 水抜方 兵右衛門 山主 理兵衛 善兵衛 申口 安左衛門 一今度柑子谷水抜泉山江水切出候ニ付大谷之小吹屋 後山稲荷山甘南備山栗木山水干落候而泉山之内 岩ヶ廻鉉安左衛門切場ゟ水打かい願出去ル九日ニ小吹屋 稲荷山ニ而者打かゐ御山使ゟ御申付山主立合双方得心 ニ而相打かい相済申候事
20枚目(全29枚の内)
21枚目(全29枚の内)
22枚目(全29枚の内)
23枚目(全29枚の内)
訴訟⑧文書画像・釈文・書き下し文
24枚目(全29枚の内)
大国村妙智 質物畑出入 相手温泉津村権右衛門 妙智申口 一 私甥温泉津村権右衛門と申者へ畑質物ニ取銀貸置 申候而返弁滞候ニ付去々年茂訴訟仕罷出候ヘハ右 質所畑請取候様ニ被仰付候然共銀ニ而調候様ニ申尓今相 滞迷惑之由申候 返答 権右衛門申口 一伯母妙智へ畑質物ニ入借銀仕候処去々年書付被指上 対決之上質所之畑相渡候様ニ与被仰付御請申上候処右之 畑請取不申由申候而此度又被申上候証文之通質物之畑請 取候様ニ与申候 右裁許 右出入双方遂吟味候処去々年申出妙智方へ質所之畑請取候 様ニ与裁許通畑妙智方へ請取可申旨申渡尤庄屋 行右衛門へ茂右之通畑為請取候様申渡候 辰 五月十二日
大国村妙智 質物畑出入 相手温泉津村権右衛門 妙智申し口 一 私甥温泉津村権右衛門と申す者へ、畑質物に取り、銀貸し置き 申しそうろうて、返弁滞りそうろうに付き、去々年も訴訟つかまつり 罷り出でそうらえば、右 質所畑請け取りそうろうようにおおせつけられそうろう、しかれども銀にて調えそうろうように申し、今にあい 滞り迷惑之由申しそうろう 返答 権右衛門申口 一、伯母妙智へ畑質物に入れ借銀仕りそうろう処、去々年書付指上げられ、 対決の上質所の畑相渡しそうろう様にと仰せ付けられ御請け申し上げそうろう処、右の 畑請け取り申さざる由申しそうろうて、此の度又申し上げられそうろう証文の通り、質物の畑請 取そうろう様にと申しそうろう 右裁許 右出入双方吟味遂げそうろう処、去々年申し出妙智方へ質所請け取りそうろう 様にと裁許の通り、畑妙智方へ請け取り申すべき旨申し渡し、尤も庄屋 行右衛門へも右の通り請け取らせそうろう様に申し渡しそうろう。 辰 五月十二日
訴訟⑧現代語訳
大国村妙智 担保の畑をめぐる訴訟 相手温泉津村権右衛門 妙智の主張 一 私の甥である温泉津村権右衛門という者へ畑を質物に取って銀を貸しておきましたが 返弁が滞っているので一昨年にも訴え申し出ましたところ、 (その時の判決では)担保の畑を(私が)受け取るように仰せつけられました。 けれども(権右衛門は)銀で返済すると言っていて今になっても(返済が)滞り迷惑に思っています。 返答 権右衛門の言い分 一、私の伯母である妙智へ畑を質物に入れて銀を借りました所、一昨年に書付訴状が提出されて、 訴訟となった結果、妙智へと質物の畑を渡しなさいと仰せ付けられたので、それをお受けいたしますと申し上げました。 しかし、妙智は畑を受け取らないと言っていたのですが、この度またおっしゃられた証文の通り、質物である畑を 受け取ると言ってきています。 右の判決 右の訴訟について、双方の言い分を吟味した結果は以下の通り。一昨年申し出の あった妙智の件について、妙智の方が担保となった畑を受け取るようにとの判決の通り、 妙智が畑を受け取るようにと申し渡す。ただし、庄屋の行右衛門にも 畑を受け取らせるようにと申し渡している。 辰 五月十二日
訴訟⑨文書画像・釈文・書き下し文
25枚目(全29枚の内)
大森町六助 田地永荒場出入 相手延里上組市右衛門 六助申口 一、延里村市右衛門親喜右衛門与申者江私親庄右衛門ゟ田方高五斗 七升弐合之所売渡右之外ニ浜分と申永荒場三斗三升 之所残置候得共私義近年ハ奉公仕漸此節大森町 借屋仕罷居右之売残荒所市右衛門取明申由承候ニ付延里 村庄屋中ヘ相断申候処五年以前宝永五子年御改之節 市右衛門分と申上候而三斗三升永荒之内弐斗前起シ立 去卯年迄四年之間御役目市右衛門ゟ仕作仕候由市右衛門方ヘ 私親渡置候証文被致吟味候処永荒三斗三升之所者 私分ニ相究リ候ニ付市右衛門ゟ引渡候様ニ被申付私請取分ニ者 仕即延里村八郎右衛門と申者江下作ニ懸ケ其上麦毛上も おさへ置是ハ庄屋衆へ預置候由申候而罷帰申候所此比麦 市右衛門苅取其跡すき返シ申候ニ付又庄屋中断申 候得ハ市右衛門我侭申ニ付如何様共了簡次第ニ仕候様ニと 被申候故御断申出候近年之作徳相添荒所取明候分 引渡候様ニ願候由申候 返答 市右衛門申口 一 大森町六助親延里村庄右衛門ゟ私親喜右衛門方ヘ先年□□ 五斗七升弐合幷荒所三斗三升分共ニ坪ハ西ノの名川限□ 証文ニ而買置申候右荒所近年私川除等仕御田地ニ仕
大森町六助 田地永荒場出入 相手延里上組市右衛門 六助申し口 一、延里村市右衛門親喜右衛門と申す者へ私親庄右衛門より田方高五斗 七升弐合の所売渡、右のほかに浜分と申し、永荒場三斗三升 の所残し置きそうらえども、私義近年は奉公仕り、ようやくこの節大森町 借屋仕り罷り居り、右の売れ残り荒所、市右衛門取り明け申し由承りそうろうにつき、延里村庄屋中へ相断申しそうろう処 宝永五子年御改めの節、市右衛門分と申し上げそうろうて、 三斗三升永荒の内弐斗前起し立て、去る卯年迄四年の間御役目 市右衛門より仕り作り仕りそうろう田、市右衛門方へ私親渡し置き そうろう証文吟味致されそうろう処、永荒三斗三升の処は私分に 相究りそうろうに付、市右衛門より引き渡しそうろう様に申し付けられ、 私請け取分には仕り、即ち延里村八郎右衛門と申す者へ下作に懸け,其の上、麦毛上げも おさえ置きこれは庄屋衆へ預け置きそうろう由申しそうろうて罷り帰り申しそうろう処、 此ごろ麦市右衛門刈り取り、その跡すき返し申しそうろうに付、また庄屋中断り申し そうらえば、市右衛門我が侭申すに付、いか様とも了簡次第に仕りそうろう様にと 申されそうろう故お断り申し出でそうろう、近年の作徳あい添え荒所取り明けそうろう分 引き渡しそうろう様に願そうろう由申しそうろう 返答 市右衛門申口 一 大森町六助の親、延里村庄右衛門より私親喜右衛門方へ、先年□□ 五斗七升弐合幷びに荒れ所三斗三升分共に、坪は西の名川限□ 証文にて買い置き申しそうろう、右荒所近年、私川除け等仕り御田地に仕り、
26枚目(全29枚の内)
五年以前御改之節永荒三斗三升之内弐斗起シ御帳面ニ載 只今迄御役目私上納仕来申候右買証文ハ紛失仕候得共年々 御役目仕庄屋手形取置申候然処六助義彼荒所残置候 所之由段々偽申出驚入申候高懸リ御役目六助ゟ相勤申筈ニ 御座候得共私分ニ紛無御座諸役相勤申候御改之節五年以前 地下人御案内ニ而御見分請申候六助所持仕候証文も御座候ハヽ 御覧被遊可被下候麦毛上両庄屋ヘ六助ゟ預ケ置右之場所 請取延里村八郎右衛門ヘ下作ニ懸ケ置候由一円不存候処八郎右衛門 色々申含徒成義申上候段迷惑仕候私分故麦苅取 すき申候六助我侭不仕様ニ願候由申候 一右出入六助ゟ辰五月二日ニ訴出同十二日ニ双方聞届ケ候処不分明 故吟味庄や共ヘ申渡市右衛門親喜右衛門先年買候証文□内々□ 両庄屋致吟味候由永荒三斗三升之分ハ証文載候哉残 置候哉此段証文見候訳幷高懸リ御役目如何様ニ取 立候哉永荒改之節ハ帳面如何様ニ改請候哉両人之庄屋共ゟ 書付差出候様ニ申渡右吟味之上双方可聞届旨申渡候 惣左衛門 吟味 庄屋 申口 善兵衛 一 六助親庄右衛門ゟ買候証文ハ現田高五斗七升弐合前□弐拾 四年以前元禄弐巳年之証文当春立合見申候処永荒 三斗三升之訳ハ載リ不申由五月十八日庄屋ゟ書付差出候 一 高懸リ御役目取立候義ハ延里村ハ先年ゟ現田ゟ取立来申 候ニ付高懸リニ而茂永荒江ハ懸ヶ不申由申候
五年以前御改の節、永荒三斗三升の内弐斗起シ御帳面に載せ、 只今迄、御役目、私上納仕り来申しそうろう右買い証文は紛失仕りそうらえども年々 御役目仕り庄屋手形取り置き申しそうろう、しかる処六助義彼の荒所残し置きそうろう 所の由段々偽り申し出驚き入り申しそうろう、高懸り御役目六助より相勤め申す筈に 御座そうらえども私分に紛れ御座無く諸役相勤め申しそうろう、御改めの節五年以前 地下人御案内にて御見分請け申しそうろう、六助所持仕りそうろう証文も御座そうらわば 御覧じ遊ばれ下さるべくそうろう麦毛上両庄屋へ六助より預け置き、右の場所請け取り、 延里村八郎右衛門へ下作に懸け置きそうろう由一円存ぜずそうろう処、 八郎右衛門色々申し含めいたずら成る義申し上げそうろう段迷惑仕りそうろう、 私分故麦苅取りすき申しそうろう、六助我侭仕らざる様に願いそうろう由申しそうろう 一 右出入六助より辰五月二日に訴出、同十二日に双方聞き届けそうろう処不分明 故、吟味庄やどもへ申し渡し、市右衛門親喜右衛門先年買いそうろう証文□内々□ 両庄屋吟味致しそうろうよし、永荒三斗三升の分は証文載せそうろうや、残し 置きそうろうや、此の段証文見そうろう訳け幷びに高懸り御役目いか様に取 立てそうろうや、永荒改めの節は帳面いか様に改め請けそうろうや、両人の庄屋どもより 書付差し出しそうろう様に申し渡し、右吟味の上双方聞き届くべき旨申し渡しそうろう 惣左衛門 吟味 庄屋 申し口 善兵衛 一 六助親庄右衛門より買い候証文は、現田高五斗七升弐合前□、弐拾 四年以前、元禄弐巳年の証文、当春立ち会い見申し候処、永荒 三斗三升の訳は載り申さざる由、五月十八日庄屋より、書付差し出し候 一 高懸り御役目取り立て候義は、延里村は先年より現田より取り立て来たり申し 候に付き、高懸りにても永荒へは懸け申さざる由、申し候
27枚目(全29枚の内)
一 五年以前宝永五子年御改帳只今延里村ニ御座候此□ 改之節名請市右衛門与仕御案内仕候義ハ先帳ニハ茂右衛門与御座 候得共荒所其節地主六助ニ而候哉何方ニ罷在候茂不存候 処市右衛門儀親喜右衛門買取候現田並ニ而持分ニ候様ニ手入仕罷在 御改請申由申候ニ付市右衛門と名請仕帳面指上御改請申候□ 節弐斗前之所起り御帳ニハ高三斗三升西之前内弐起 残一斗三升永荒と御帳載被遣近年御役目市右衛門ゟ 取立上納仕候由申候。 一 右永荒三斗三升之所取明人足何程并三斗三升之所 当分売買ニ仕候ハヾ銀何程茂可仕候哉延里村庄屋両人并 近村之庄屋共ゟ書付差出候様ニ申渡則延里村稲用村 土江村庄屋共六月五日書付差出候右取明候人足百人 賃銀〆ハ百目右場所当分売買ニ仕候ハヾ三百三拾目程可仕 由書付差出候 右裁許 右出入双方遂吟味候処弐拾四年以前六助親庄右衛門ゟ市右衛門 親喜右衛門ヘ買候証文ニハ田高五斗七升弐合之所ニ而永荒三斗 三升之分ハ載不申其後右弐拾四年ゟ八年過元禄九子年十七年 以前永荒改之節三斗三升永荒茂右衛門与有之帳ハ五年 以前改之節ハ取上ケ改人中山藤兵衛方ニ有之見合候処相違 無之候茂右衛門与申ハ庄右衛門親ニ而六助祖父之由然上ハ六助申通 地主ハ六助ニ候市右衛門分之由五年以前改之節申候而改請候得共
一 五年以前宝永五子年御改帳只今延里村にござそうろう、此の□ 改めの節名請け市右衛門とつかまつり御案内つかまつりそうろう義は、先帳には 茂右衛門とござそうらえども、荒所其の節地主六助にてそうろうや、何方に罷り在り そうろうも存ぜずそうろう処、市右衛門儀親喜右衛門買取そうろう現田並にて持ち分にそうろう様に手入れ仕り罷り在り 御改め請け申し由申しそうろうに付き市右衛門と名請け仕り帳面指上げ御改め請け申しそうろう□ 節弐斗前の所起り御帳には高三斗三升西の前内弐斗起り 残り壱斗三升永荒れと御帳載せ遣わされ近年御役目市右衛門より 取立上納仕りそうろう由申しそうろう。 一 右永荒三斗三升の所、取り明け人足いかほど、ならびに三斗三升の所、 当分売り買いに仕りそうらわば、銀いかほども仕りそうろうべきや、延里村庄屋両人ならびに 近村の庄屋共より書付差し出しそうろう様に申し渡し、則ち延里村、稲用村 土江村庄屋ども六月五日書き付け差し出しそうろう、右取り明けそうろう人足百人 賃銀しめて百目、右場所当分売り買いに仕りそうらわば、三百三拾目程仕るべき 由書き付け差し出しそうろう 右裁許 右出入双方吟味遂げそうろう処、弐拾四年以前六助親庄右衛門より市右衛門 親喜右衛門へ買いそうろう証文には田高五斗七升弐合之所にて永荒三斗 三升之分は載せ申さず、其の後右弐拾四年より八年過ぎ元禄九子年十七年 以前永荒改の節三斗三升永荒茂右衛門とこれ有る帳は五年 以前改の節は取上げ改人中山藤兵衛方にこれ有り見合そうろう処、相違 これなくそうろう茂右衛門と申すは庄右衛門親にて六助祖父の由、然る上は六助申す通り 地主は六助にそうろう、市右衛門分の由五年以前改めの節申しそうろうて 改め請けそうらえども、
28枚目(全29枚の内)
地主六助不存此節申出候紛無之候依之取明候人足賃銀 百目六助ゟ為出市右衛門ニ為取□(三)斗三升前之田地ハ当作ゟ 六助方ヘ請取候様ニ申付候尤大森町年寄延里村庄屋共ヘも 右之通申渡候 一、市右衛門ハ三斗三升之所五年以前改之節弐斗前起改帳ニ茂 載致御役目候得共四年以前丑年ゟ卯年迄三ヶ年残 壱斗三升之所も不残起候所無断罷在候段不届ニ候壱斗 三升之御役目三ヶ年分急度庄屋方へ相納可申旨申渡之 一、市右衛門義右荒所不残起候所三年之間不申出其上親喜右衛門 弐拾四年以前現田五斗七升弐合之計買候節証文当春 庄屋共吟味之節迄ハ指出候由ニ候所度々右証文差出候様ニ 申付候得共此節ニ至紛失之由申候段不届ニ候依之手錠申付候 右庄屋共ゟ指出候書付如左 乍恐差上ケ申一札之事 一、此度大森六助与延里上組市右衛門と永荒場出入 ニ付市右衛門方ニ買証文有之哉と御尋被為遊候 去十二日宗左衛門申上候通市右衛門方ニ現田高五斗 七升弐合六助親庄右衛門ゟ元禄弐巳年之証文 当春立合見申候永荒高三斗三升之証拠ハ見 不申儀ニ御座候已上 正徳弐年辰五月十□ 延里上組庄屋 宗左衛門 御奉行所 同本郷庄屋 善兵衛
地主六助存ぜず此の節申し出そうろうに紛れこれなく そうろう、これに依り取り明けそうろう人足賃銀百目六助より出させ市右衛門に 取らせ、□(三)斗三升前の田地は当作より六助方へ請け取りそうろう様に 申し付けそうろう、尤も、大森町年寄、延里村庄屋共へも右の通り申し渡し そうろう 一、市右衛門は三斗三升の所、五年以前改めの節二斗前起こし、改め帳にも 載せ御役目致しそうらえども、四年以前丑年より卯年まで三ヶ年残り 壱斗三升の所も残らず起こしそうろう所、断り無く罷りありそうろう段不届きにそうろう、壱斗 三升の御役目三ヶ年分きっと庄屋方へ相納め申すべき旨これを申し渡す 一、市右衛門義右荒れ所残らず起こしそうろう所、三年の間申し出ず、其の上親喜右衛門 弐拾四年以前現田五斗七升弐合之所ばかり買いそうろう節証文、当春 庄屋共吟味の節迄は、指し出しそうろう由にそうろう処、度々右証文差し出しそうろう様に 申し付けそうらえども、此の節に至り紛失の由申しそうろう段、不届にそうろう、これに依り手錠申し付けそうろう 右庄屋共より指し出しそうろう書き付け左の如し 恐れながら差し上げ申す一札の事 一、このたび大森六助と延里上組市右衛門と永荒場出入 に付き、市右衛門方に買い証文これ有る哉と御尋ね遊ばさせられそうろう、 去る十二日、宗左衛門申し上げそうろう通り、市右衛門方に現田高五斗 七升弐合、六助親庄右衛門より元禄弐巳年の証文、 当春立合い見申しそうろう、永荒高三斗三升の証拠は見え 申さざる儀に御座そうろう、已上 正徳弐年辰五月十□ 延里上組庄屋 宗左衛門 御奉行所 同本郷庄屋 善兵衛
29枚目(全29枚の内)
指上ヶ申一札之事 評ハ西ノ□前 一、田方三斗三升 此代丁銀三百三拾目程可仕様ニ見及申候 一、 人足百人 此賃銀百目 是ハ年々右之場所取明人足入用 右之場所私共立合如此見及申候已上 正徳弐年辰五月 静間村庄屋 孫平 土江村庄屋 善兵衛 稲用村庄屋 六右衛門 延里村庄屋 善兵衛 同 宗左衛門 同頭百姓 四郎左衛門 同 儀右衛門 御奉行所 辰六月六日 右市右衛門手錠延里村庄屋并親類共ゟ断候ニ付六月 十二日差免之候
指し上げ申す一札の事 評は西の□前 一、田方三斗三升 この代丁銀三百三拾目程仕るべき様に見及び申しそうろう 人足百人 この賃銀百目 これは年々右の場所取り明け人足入用 右の場所私共立合い、かくのごとく見及び申しそうろう、已上 正徳弐年辰五月 静間村庄屋 孫平 土江村庄屋 善兵衛 稲用村庄屋 六右衛門 延里村庄屋 善兵衛 同 宗左衛門 同頭百姓 四郎左衛門 同 儀右衛門 御奉行所 辰六月六日 右市右衛門手錠、延里村庄屋并びに親類共より断り候に付き六月 十二日、これを差し免しそうろう
訴訟⑨現代語訳
大森町六助 農耕を行わなかった土地の所有に関する訴訟 相手延里上組市右衛門 六助の主張 一、延里村市右衛門の親喜右衛門という者へ、私の親庄右衛門は田方高五斗七升二合の 土地を売り渡し、他に浜分という永荒場で三斗三升の土地を(私に)残しておきました。 しかし、私は近年は奉公に出ており、やっとこの頃になって、大森町の借屋に住むようになりました。 そうしたところ売れ残った永荒場を市右衛門が再び開発することを聞いたので、延里村の庄屋中に連絡をしました。 宝永五年子年の土地調査の際、永荒場は市右衛門の所有地であると延里村の庄屋中へと報告し、 市右衛門は三斗三升の永荒の内弐斗分を開発し、 去年の卯年迄の四年間は市右衛門が税負担などを負い、所持してきましたとのことです。 しかし、その土地の所有について、私の親が市右衛門に渡しておきました証文を庄屋中が吟味しましたところ、 永荒の三斗三升は私の土地だということが分かりました。 よって、市右衛門から土地を引き渡してもらうようにと庄屋中から言われましたので、 私は土地を受け取り、それを延里村に住む八郎右衛門に小作地として預けました。 その上、麦の実り具合を確認し、そのことを延里村の庄屋たちに伝えて大森に帰ったところ、 最近、市右衛門が麦を刈り取りそのあとの畑をすき返してしまいました。 そこで庄屋たちにそのことを連絡したところ、此の畑は自分のものだと市右衛門はわがままを通します。 このためこの件については、自分でどうとでもするように、と言われたので、お上に申し出ました。 近年の開発地からの収穫利益を含めて市右衛門が荒れ所を返してくれるように、と私は願っていますとのことである。 返答 市右衛門の言い分 一、大森町の六助の親である延里村の庄右衛門から、私の親である喜右衛門方は、 先年□□五斗七升弐合と荒れ地である三斗三升分共に、場所は西の川限りとして、証文を作成して買い置いていました。 右の荒れ地を近年、私が川除けなどをした上で田地にしたところです。 五年前に田地の調査があった際に、荒れた土地三斗三升の内、二斗を開発し、帳面に載せ、現在まで私が租税等を負担しております。 右に述べた喜右衛門が買った時の証文は紛失しましたが、毎年税負担などを負い、庄屋の受取手形は取ってあります。 にもかかわらず、六助が荒所は売らずに残しておいたところだと、あれこれと偽りを言っているのには驚きます。 もしそならば税の負担などは六助が負うはずでありますが、実際には私が間違いなくつとめてきました。 五年前の土地調査の際も村人が役人をご案内して見分してもらいました。 六助の所持する証文があるのでしたら、そちらをご覧になってください。 この土地の麦の収穫を延里村の両庄屋に六助から預けておくことにし、 八郎右衛門へ下作(小作)に懸けていることは全く知りませんでした。 六助が八郎右衛門に対して色々申し含め根拠のないことを申し上げたのは 本当に迷惑なことだと思っております。 この土地は私の分であるので麦を刈り取り鋤き起こしました。 六助が我儘をしないように願っております、と言っているとのことです。 一、右の訴訟は六助から辰五月二日に訴えがあり、同月十二日に双方の言い分を聞いたところ、はっきりしなかった。 よって再吟味を庄屋たちへ申しつけた。そして、市右衛門の親喜右衛門が先年買った証文を内々に二人の庄屋が吟味したとのことである。 永荒三斗三升のことは本当に証文に載っているのか、それとも、六助の親の云い残しておいた証文を見た結果の確認。 三斗三升の内二斗にかかる御役目はどのようにして取り立てたのか。五年前永荒地を調査したときどのように調査をうけて帳面に記載したのか。 これらについて二人の庄屋から書付を差し出すように申しつけた。 右の調査をした上で、六助と市右衛門の二人の主張を再び吟味することとなった。 一、六助の親である庄右衛門より買った際の証文には、現田(検地帳に記載された田)の石高は五斗七升二合となっています。 二十四年前の元禄二年(巳年)の証文を、この春に立ち会ってみたところ、 荒地の部分の三斗三升相当分は記載されていなかったということです。 このことについて、五月十八日に庄屋より書面が提出されました。 一、田の石高にかかる負担分を百姓から集めるに際しては、延里村では先年より現田より集めてきましたので、 高がかりの諸負担は永荒地にはかけてきていないということを申しております。 一 五年前である宝永五年子年の土地調査の帳面は、現在は延里村にございます。この□ 土地調査の年貢負担者を市右衛門としてご案内したのは、以前の帳面には茂右衛門とありましたが、 荒所の調査の時、地主が六助なのか調べようとしたら(六助が)どこにいるのかわからなかったのです。 市右衛門の親である喜右衛門が買い取った今の田んぼ並であって持分のように手入れしており改めの田請には市右衛門と名請とし、 帳面を指上げまして、改めの請□の節に弐斗程の所が起り、帳面には高は三斗三升で西の前の内弐斗が起り、 残りの壱斗三升は永荒れと帳面に載せて、使いを送らせて御役目を市右衛門より取り立てて上納していることを言った 一 右の三斗三升の土地を何人の人足を使い耕したのか、 三斗三升を売買すると銀でいくらになるのであるのかについて、延里村の庄屋二人と 近くの村の庄屋たちから書付を差し出すように申し渡した。延里村、稲用村、 土江村の庄屋達は六月五日に書付を差し出した。人足は百人であり、 賃金は全部で銀百目になり、右の土地を売買するなら、銀三百三拾目程で取引されるという書付を提出した。 右の裁判 右の訴訟両方の吟味を終えたところ、二十四年以前に六助の親の庄右衛門から市右衛門の親の喜右衛門が土地を買ったという内容の証文には 田高五斗七升二合だけ書いてあって、永荒地三斗三升分は載っていなかった。 その二十四年前から八年過ぎた元禄九子年、すなわち十七年以前に永荒地を改めて調査したとき、 三斗三升の永荒地は茂右衛門の所有だとこの帳面には記載されていた。その帳面は、さらに五年以前の調査の際に調査を行った際に取り上げており、 中山藤兵衛の方にあったのを見てみたところ、その通りに記載されていた。 茂右衛門というのは庄右衛門の親で、六助の祖父とのことである。 そういうことであるので、六助の主張通り、地主は六助である。 市右衛門のものであると、五年以前の土地調査の際には申請して調査を受けたが、地主である六助はそのことを知らずにおり、 今回の申し出たという経緯に間違いはない。 よって、永荒地の再開発にあてられた賃金は、六助に出させ、市右衛門に受け取らせることとする。 □(三)斗三升の田地については、今年度の作付から六助が受け取ることとするよう命じた。 尤もこの件については、六助が現在住んでいる大森町の年寄りや田地のある 延里村の庄屋達へもこのように申しわたす。 一、市右衛門は、永荒地三斗三升のうち二斗分を開墾して改め帳に載せ、二斗分の御役目を勤めてきた。 しかし、実は、四年前の丑年から卯年までの三ヶ年で、残り一斗三升も残らず開墾をしていたのに、これを届けていなかったことは不届きである。 よって一斗三升分の御役目三年分をきちんと庄屋に納めるよう申し渡した。 一 市右衛門は右の荒地を残らず開拓したが、三年の間申し出ることは無かった。 その上、親喜右衛門が、二十四年前に荒地でない耕作している田五斗七升二合の所ばかりを買った際の証文を、 この春に庄屋共の吟味の時までは、指し出したということであるが、それまで何度も庄屋に証文を差し出すように言ったにもかかわらず、 その際、紛失したと主張していたことは不届きである。これより罰として手錠を付けることを申しつける 右について庄屋共から差し出された書き付けを左にかかげる。 恐れながら差上げ申す一札之事 一、この度、大森の六助と延里上組の市右衛門との間で起こった永荒場をめぐる 訴訟について、市右衛門の方に買い取った証文があるかとお尋ねなさいました。 この前の十二日に宗左衛門が申し上げた通り、市右衛門の方にある、現田高五斗 七升弐合の土地を六助の親である庄右衛門より買った際の元禄弐巳年の証文については、 この春に立ち合い見分しました。この証文には、永荒高三斗三升の土地も買いとったという証拠は見あたりませんでした。以上 正徳弐年辰五月十□ 延里上組庄屋 宗左衛門 御奉行所 同本郷庄屋 善兵衛 指し上げ申す一札の事 評は西の□前 一、田方三斗三升 この代金は丁銀で三百三拾目程である。 人足百人 この賃金銀百目 これは数年かかって右の場所を耕作するのに必要とした人足です。 右の場所に私共が立合い、このように判断いたしましたところでございます。以上 正徳弐年辰五月 静間村庄屋 孫平 土江村庄屋 善兵衛 稲用村庄屋 六右衛門 延里村庄屋 善兵衛 同 宗左衛門 同頭百姓 四郎左衛門 同 儀右衛門 御奉行所 辰六月六日 右の市右衛門は手錠としましたが、延里村庄屋並びに親類達より申し入れがありまして、 六月十二日これを免除いたしました。
脚註
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<comments hideform="false" /> トーク:御留守之内公事裁許之留