江戸へ持参の書物留
目録番号:A216
担当:島根大学法文学部社会文化学科歴史と考古コース古文書ゼミ
文書画像と釈文と書き下し文
1枚目(全21枚の内)
享保十一年 午秋江戸江持参之書物留 九月 窪嶋作右衛門
享保十一年 午秋江戸へ持参の書物留 九月 窪嶋作右衛門
2枚目(全21枚の内)
乍恐以書付御願申上候御事 一無名異御山番給去ル寅年ゟ当午年 迄五年之間御証文被下置只今迄相續 仕難有奉存候弥此以後共番給不被仰付 候而ハ相続難仕御座候間右之趣被為仰立無 名異御山無中絶永々御用相勤候様ニ偏 御慈悲奉仰候以上
恐れながら書き付けを以て御願い申し上げ候御事 一無名異御山番給、去ル寅年より当午年 まで五年の間御証文下し置かれ、只今まで相続 仕り有り難く存じ奉り候、いよいよ此れ以後共番給仰せ付られず 候ては相続仕り難く御座候間、右の趣仰せ立てさせられ、無 名異御山中絶無く永々御用あい勤め候様に偏に 御慈悲仰ぎ奉り候、以上
3枚目(全21枚の内)
証文之事 一、石州那賀郡銀山御料浅利村石光山浅利寺 従往古無本寺之古跡ニ紛無之此度長州 萩東光寺月村弟子玄津与申僧ヲ 住持請依之当住玄津幷村役人以 証文山城国黄檗山万福寺末寺ニ願入 (故カ) □末寺票文差出候向後御国法之 寺社御帳面幷宗旨帳御記可被下候 此証文指出置候上者已後御改之時分 ニ茂無相違御済可被下候仍而証文如件 享保十一年午三月 山城国黄檗山 万福寺 印 窪嶋作右衛門殿 御役人衆中
証文の事 一、石州那賀郡銀山御料浅利村石光山浅利寺 往古より無本寺の古跡に紛れこれ無く、このたび長州 萩東光寺月村弟子玄津と申す僧を 住持に請ひ、これにより当住玄津ならびに村役人 証文を以て山城国黄檗山萬福寺末寺に願い入る 故、末寺票文差し出し候。向後御国法の 寺社御帳面ならびに宗旨帳御記し下さるべく候。 この証文指し出し置き候上は、已後御改めの時分 にも相違無く、御済み下さるべく候。よりて証文件の如し。 享保十一年午三月 山城国黄檗山 万福寺 印 窪嶋作右衛門殿 御役人衆中
4枚目(全21枚の内)
差上ケ申一札之事 一、畑九畝拾歩 浅利村 浅利寺 右者浅利村浅利寺本寺ゟ向後御役所 (載カ) 御帳面ニ御裁可被下由願ニ付私共江様子 御尋被遊候寛永元年九月二日川井小右衛門殿 (部カ) 渡□三郎右衛門殿御改之検地帳写シ村方ニ 所持仕候処御除地ニ罷成候扣書面之通ニ御坐候 何時ニ而茂御用之節ハ御帳面御披見 可奉入候以上 享保十一年午九月 浅利村庄屋 新助 印 同年寄 又右衛門 印 頭百姓 惣七 印 同 嘉右衛門 印 同 八郎右衛門 印
差し上げ申す一札の事 一、畑九畝拾歩 浅利村 浅利寺 右は浅利村浅利寺本寺より向後御役所 御帳面に御載せ下さるべき由願いにつき、私どもへ様子 御尋ね遊ばされ候。寛永元年九月二日川井小右衛門殿 渡部三郎右衛門殿御改めの検地帳写し、村方に 所持仕り候ところ、御除地に罷り成り候控え、書面の通りに御座候。 何時にても御用の節は、御帳面御披見 入れ奉るべく候、以上。 享保十一年午九月 浅利村庄屋 新助 印 同年寄 又右衛門 印 頭百姓 惣七 印 同 嘉右衛門 印 同 八郎右衛門 印
5枚目(全21枚の内)
乍恐書付ヶを以御断申上候御事 一 石州那賀郡浅利村石光山浅利寺之儀 往古ゟ之古跡ニ紛無御坐候然処ニ七八ヶ年 已前愚伯司与申あんぎや僧為看坊彼 浅利寺預ヶ置申候処ニ其頃禅宗一派之寺 由緒書仕差上ヶ申候様ニと本山方ゟ御廻状御 廻シ被遊候就夫彼浅利寺之儀茂何頃ゟ歟 京都南禅寺末寺之様ニ風聞仕候ニ付 御帳面等ニ茂南禅寺末寺と印差上来り申候処ニ 一円其訳難知御坐候ニ付彼御触ヲ幸与奉存 看坊愚伯司地下役人書付相認市村 清泰寺ヲ相頼京都南禅寺右本末之訳 委細御書付被為遣候様ニ御伺申上候処ニ 南禅寺ニおゐて茂末寺与申儀一円 無御坐候由ニ付其通りニて捨置申候御事 一 彼浅利寺看坊相勤申候愚伯司去秋相果
恐れながら書付けをもって御断り申し上げそうろう御事 一 石州那賀郡浅利村石光山浅利寺の儀、 往古よりの古跡に紛れ御坐なくそうろう。しかる処に七八ヶ年 已前、愚伯司と申すあんぎや僧看坊となし、かの 浅利寺預け置き申しそうろう処に、その頃禅宗一派の寺 由緒書仕り差し上げ申しそうろう様にと、本山方より御廻状御 廻し遊ばされそうろう。それに就き、かの浅利寺の儀もいつ頃よりか 京都南禅寺末寺の様に風聞仕りそうろうに付き、 御帳面等にも南禅寺末寺と印し差し上げ来り申しそうろう処に、 一円その訳知れ難く御坐そうろうに付き、かの御触を幸いと存じ奉り、 看坊愚伯司、地下役人書き付けあい認め、市村 清泰寺をあい頼み、京都南禅寺右本末の訳け 委細御書き付け遣わさせられそうろう様に御伺い申し上げそうろう処に 南禅寺においても末寺と申す儀一円 御坐なくそうろう由に付き、その通りにて捨て置き申しそうろう御事。 一 かの浅利寺看坊あい勤め申しそうろう愚伯司、去る秋あい果て
6枚目(全21枚の内)
申候ニ付只今ハ長州萩松本東光寺弟子 玄津与申僧又候哉看坊ニ彼寺預ヶ置申候 ヶ様成大切之古跡無本寺ニ而潰シ申儀不本意成 儀与奉存此度彼看坊本師萩東光寺ヲ 相頼彼玄津地下役人書付相認山城国 宇治黄檗山万福寺へ本末之御頼申上処ニ 首尾能頼之筋相叶本末之票文并 御役所江宗旨証文被為遣候ニ付地下役人 願書相認右宗旨証文共ニ差上申候処ニ 已前彼看坊相勤罷在候時分都治本郷慈 恩寺ゟ宗旨帳面ニかり印形相調被申候ニ付此 度御公儀様ゟ其段御吟味被為遊御尤至 至(衍)極ニ奉存候彼慈恩寺かり印形被致候儀ハ 愚伯司寄り弟子ニ而御座候ニ付愚伯ニ対シかり 印形被致候一円村方ゟ相頼申儀ニ而ハ無御座候 次郷田村観音寺ゟ浅利寺之儀ニ頼(願カ)出被 申候段御吟味被遊候此儀ハ地下役人共一円不奉 存候事ニ御座候御事
申しそうろうに付き、只今は長州萩松本東光寺弟子 玄津と申す僧またぞろや、看坊にかの寺預け置き申しそうろう。 ケ様なる大切の古跡無本寺にて、潰し申す儀不本意なる 儀と存じ奉り、この度かの看坊本師萩東光寺を あい頼み、かの玄津地下役人書き付けあい認め、山城国 宇治黄檗山万福寺へ本末の御頼み申し上ぐる処に、 首尾よく頼みの筋あい叶い、本末の票文并びに、 御役所へ宗旨証文遣わせられ候に付き、地下役人 願書あい認め、右宗旨証文共に差し上げ申し候処に、 已前、かの看坊あい勤め罷り在り候時分、都治本郷慈 恩寺より宗旨帳面にかり印形あい調え申され候に付き、この 度御公儀様よりその段御吟味遊ばさせられ、御尤も至 至(衍)極に存じ奉り候、彼の慈恩寺かり印形致され候儀は 愚伯司寄り弟子にて御座候に付き、愚伯に対しかり 印形致され候、一円村方よりあい頼み申す儀にては御座なく候、 次に、郷田村観音寺より浅利寺の儀に付き頼み(願い)出 申され候段、御吟味遊ばされ候、この儀は地下役人共、一円 存じ奉らず候事に御座候御事
7枚目(全21枚の内)
一 彼浅利寺看坊愚伯ゟ前々茂看坊相勤 申僧浄土宗看坊之時分ハ浄土寺ゟ年々 宗旨帳面ニ看坊ニ対し印形被致候纔成 浅利寺之儀ニ付壱ヶ寺与相究印形取 来り申候儀ハ無御座候其段ハ前々差上ヶ 置申候宗旨帳面ニ御座候彼浅利寺義ニ付 何れ之寺方中へ茂村方ゟ書付出し置候 儀ハ往古ゟ無御座上ハ万自今以後何れ之 寺方中ニ而茂浅利寺の儀ニ付障成義被 申出候ハヽ村役人共何方へ茂罷出申訳可仕御事 右之通り少茂偽無御座候黄檗山票 文并御役所江宗旨証文申請候儀ニ 御座候間壱ヶ寺御建立与為被思召上右願 之候筋宜被為仰付被下候様乍恐奉願申上候 以上 享保十一年 願人浅利村庄屋 新助 印 午六月 同年寄 又右衛門 印 同頭百姓 嘉右衛門 印 同同 八郎右衛門印 同同 惣七 印
一つ、彼浅利寺看坊愚伯より前々も看坊あい勤め 申す僧、浄土宗看坊の時分ハ、浄土寺より年々 宗旨帳面に看坊に対し印形致されそうろう、僅か成る 浅利寺の儀に付き、壱ヶ寺とあい究め印形取り 来り申しそうろう儀は御座無くそうろう、其の段は前々差し上げ 置き申しそうろう宗旨帳面に御座そうろう、彼浅利寺義に付き 何れの寺方中へも村方より書き付け出し置きそうろう 儀は、往古より御座なき上は、万自今以後、何れの 寺方中にても浅利寺の儀に付き障り成る儀 申し出だされそうらはば、村役人共何方へも罷り出で申し訳け仕るべき御事、 右の通り、少しも偽り御座なくそうろう、黄檗山票 文ならびにお役所へ宗旨証文申し請けそうろう儀に 御座そうろうあいだ、壱ヶ寺ご建立と思し召し差し上げられ、右の願い の筋、宜しく仰せ付けさせられ下されそうろう様、恐れながら願い奉り申し上げそうろう 以上 享保十一年 願人浅利村庄屋 新助 印 午六月 同年寄 又右衛門 印 同頭百姓 嘉右衛門 印 同々 八郎右衛門 印 同々 惣七 印
8枚目(全21枚の内)
御役所 浅利寺之儀ニ付覚書 一石州那賀郡浅利村ニ浅利寺と申寺号 附候庵室前々ゟ有之候得共本寺不慥成候且今 迄ハ所々ゟ看坊持ニいたし来候由然所 此度宇治黄檗山ゟ住寺差置可申候由書 付等差越候 一右浅利寺之儀浅利村之者相尋候処 寛永元年竹村丹後奉行之節川井小右衛門 渡リ三郎衛門改候検地帳写ニ畑九畝拾歩浅利 寺と記高外除地ニいたし在之候本帳ハ紛失 いたし候由然共寺社領引渡帳ニハ不相見候 (載ヵ) 惣而境内斗之除地者引渡寺社領帳ニハ裁 不申茂有之由 一右之類前々村方ゟ願出候茂在之候得共引渡 (載ヵ)
御役所 浅利寺の儀に付き覚え書 一石州那賀郡浅利村に浅利寺と申す寺号 附きそうろう庵室前々よりこれ有りそうらえども、本寺慥かならずそうろう、且今 までは所々より看坊持ちにいたし来りそうろう由、然る所 このたび宇治黄檗山より住持差し置き申すべくそうろう由、書き 付け等差し越しそうろう 一右浅利寺の儀、浅利村の者あい尋ねそうろう処、 寛永元年竹村丹後奉行の節、川井小右衛門・ 渡り三郎衛門改めそうろう検地帳写しに、畑九畝拾歩浅利 寺と記し、高外除地にいたしこれ在りそうろう、本帳は紛失 いたしそうろう由、然れども寺社領引き渡し帳にはあい見えずそうろう、 そうじて境内ばかりの除地は引き渡し寺社領帳には載せ 申さざるもこれ有る由、 一右の類前々村方より願い出そうろうもこれ在りそうらえども、引き渡し
9枚目(全21枚の内)
(載ヵ) 寺社領帳ニ裁不申分ハ役所ニ而取捌難致 段申渡置候由ニ候得共此度ハ黄檗ゟ書付等 遣候事ニ候得共江戸ニ而可聞合事 午九月
寺社領帳に載せ申さざる分は、役所にて取り捌き致し難き 段申し渡し置きそうろう由にそうらえども、このたびは黄檗より書き付け等 遣しそうろう事にそうらえども、江戸にて聞き合うべき事 午九月
10枚目(全21枚の内)
覚 一、此度銀山山師より御願申上候休谷新 切地修復并柑子谷水抜御入用拝 借銀弐百貫目被仰付候者御失 墜無之御普請相調候様可仕候返
覚 一、このたび銀山山師より御願い申し上げそうろう休谷新 切地修復ならびに柑子谷水抜き御入用拝 借銀弐百貫目仰せ付けられそうろうは、御失 墜これ無くこの御普請あい調えそうろう様つかまつるべくそうろう、返
11枚目(全21枚の内)
納之儀ハ何時御取立被遊候共 少茂無遅々急度上納為仕可 申候以上 享保十一年午九月 勝岡平八より 宗岡安兵衛迄 覚 一今度銀山惣山師ゟ御江戸ヘ罷下り御訴訟 申上候休谷新切修覆御入用并柑子谷 水抜拝借銀弐百貫目被仰付候ハヽ 失墜無之様ニ随分情出し御普請 仕立可申候御銀返納之義者十五年 賦ニ被仰付可被下候縦年数之内成とも
納の儀は何時御取り立て遊ばされそうろう共、 少しも遅々無くきっと上納つかまつらせ申す べくそうろう、以上 享保十一年午九月 勝岡平八より 宗岡安兵衛まで 覚 一、今度銀山惣山師より御江戸へ罷り下り、御訴訟 申し上げ候休谷新切修覆御入用ならびに柑子谷 水抜き拝借銀弐百貫目仰せ付けられ候わば、 失墜これ無き様に随分情出し御普請 仕立て申すべく候。御銀返納の義は十五年 賦に仰せ付けられ下さるべく候。たとい年数の内なるとも
12枚目(全21枚の内)
何時御取立被遊候共御差図次第 少茂無滞返上可仕候以上 享保十一年午九月 銀山山師不残 何時御取り立て遊ばされ候とも、御差図次第 少しも滞り無く返上仕るべく候、以上 享保十一年午九月 銀山山師残らず
13枚目(全21枚の内)
14枚目(全21枚の内)
15枚目(全21枚の内)
16枚目(全枚の内)
17枚目(全21枚の内)
18枚目(全21枚の内)
19枚目(全21枚の内)
20枚目(全21枚の内)
21枚目(全21枚の内)
現代語訳
享保十一年 午年の秋に江戸へ持参した書物留 九月 窪嶋作右衛門 恐ながら書付を以て御願申し上げる御事 一無名異(マンガンや鉄の酸化物)の山(採掘場所)を守る番人の 給料については、以前の寅年から当年の午年までの五年間、 証文を(御役所から)下付していただき、現在まで(支給を)続ける事ができ、ありがたく思っています。 とうとうこれ以後、番人の給料を下付されないのでは、(山の番人を)続ける事が難しいので右の旨を(御役所から勘定奉行に) 言上されて、 無名異のお山(番)を中断する事なくご用を永久に勤められますよう、ひたすら御慈悲を頂きたく思います。以上。 享保十一年午九月 無名異御山預り人 木原市兵衛印 同(木原)の息子 同(木原)与三郎印 御役所
証文の事 一、石州那賀郡銀山御料の浅利村石光山浅利寺は、昔から本寺の無い古跡に間違いありません。 このたび長州萩東光寺月村の弟子玄津という僧に住持むかえ入れ、その上でこの玄津と村役人の証文によって、 山城国黄檗山万福寺の末寺とするようお願いがあったので、万福寺は、末寺の票文を差し出しました。 今後、御国法に定められた寺社の帳面と宗旨帳に記載をお願いいたします。 この証文を提出しました後で調査を行う際にも間違いがありませんようお願いいたします。 よって、証文は以上の通りでございます。 享保十一年午三月 山城国黄檗山 万福寺 印 窪嶋作右衛門殿 御役人衆中
差し上げ申す一札の事 一、畑九畝拾歩 浅利村浅利寺 右は、浅利村浅利寺の本寺から、今後お役所の帳面に記載して頂きますように、という願いがありましたため、 私たちに様子をお聞きなさいました。 寛永元年九月二 日に川井小右衛門殿と渡部三郎右衛門殿がお調べになりました検地帳の写しを、 村方では持っていますが、除地となっていることを記した控えは、この書面の通りにございます。 いつでもご用の際は、帳面をご覧下さい。以上でございます。 享保十一年午九月 浅利村庄屋 新助 印 同年寄 又右衛門 印 頭百姓 惣七 印 同 嘉右衛門 印 同 八郎右衛門 印
恐れながら文書をもってお知らせ致します事 一 石州那賀郡浅利村の石光山浅利寺のことは、 昔からの古い寺院であることはまちがいありません。そうしたところ七、八年 前、愚伯司という行脚僧を看坊とし、当の 浅利寺を彼に預け置いておりましたところ、その頃禅宗派内の寺は 由緒書を仕立て、差上げるようにと、本山の方から御廻状を お廻しなされました。そのことについて、当の浅利寺についてはいつの頃からか 京都南禅寺の末寺であろうとの噂が立っておりましたので、 村明細帳などにも南禅寺末寺と書き、領主に差し上げてきておりましたが、 まったくその理由は知られていませんので、あの御触は幸いである思ったところです。 そこで看坊の愚伯司と地下役人とで文書を書きしるし、市村の 清泰寺にお願いして、京都南禅寺に右記の本末の理由について くわしく書いたものを下さるようにとお願いいたしましたところが、 南禅寺のほうでは、浅利寺が末寺であるということはまったく ないということでしたので、そのままに捨て置いておりましたところです。 一 例の浅利寺の看坊を勤めておりました愚伯司が去年の秋亡くなってしまいましたので、 今のところ長州萩松本の東光寺の弟子である 玄津という僧をまたしてもですが、看坊にして、例の寺を預け置いております。 このような大切な古い寺院を無本寺のままにして潰してしまうのは本意ではないと思い、 この度、看坊の玄津は本師である萩の東光寺につてをお頼みして、かの村役人とで文書を書き記し、 山城国宇治黄檗山万福寺へ本末関係を築くようお願いを申し上げましたところ、首尾良く願いが通り 本寺末寺を記した票文と御役所への宗旨証文を作成していただきました。 そこで、浅利村の村役人が願書を書き記し、右の宗旨証文と一緒に大森御役所へ提出いたしましたところ、 以前、看坊を愚伯司が勤めていたとき、都治本郷の慈恩寺より宗旨帳面に仮印形を押してもらっておりましたので、 この度、もともと慈恩寺の末寺ではないかという御役所のほうからのご質問を受けましたことは ごもっともなことであります。 しかし、慈恩寺のほうから仮印形をしていただいたのは、愚伯司が慈恩寺の弟子であったためであり、 愚伯司個人に対しての仮印形でございましたので、村方のほうからお願いしたということでは全くございません。 次に、郷田村観音寺のほうからも浅利寺について願い出ておりますことは 村役人たちは全く知らなかったことでございます。
彼の浅利寺は愚伯が看坊を務めるより前でも、 看坊を務める僧が浄土宗の僧であった時は、浄土寺から毎年 宗旨帳面に看坊の身元を証明する印を押してもらっていました。 小さな浅利寺のことですので、一つの寺に限定して印を押してもらっていた ということはありません。そのことは前々から差し上げて置いてある 宗旨帳面に記してあります。 彼の浅利寺については、どこの寺へも村方より書付を出して置いたということは、 昔からございません。したがって、いろいろとこの後にどこの 寺からであっても、浅利寺について障りの有る事を、 申されましたら、村方の役人どもがどこへでも出向いて申し開きをいたします。 右の通り、少しも偽りはございません。黄檗山の票文と 御役所への宗旨証文を申し請けてございますので、 壱ヵ寺の御建立とお考えいただき、 右の願いの通りによろしくご命じくださいますよう、 恐れながら願い奉り申し上げます。
浅利寺の事についての覚え書 一石州那賀郡浅利村にある浅利寺という寺号のついた 庵室は前々からあるのだけど、本寺がどこかが確かではありません。 しかも今までは所々から僧侶を呼んで看坊を置いていたのですが、しかし このたび宇治黄檗山から住持を置くことにしたとのことで文書が 送られて来ました。 一右の浅利寺について浅利村の者へ尋ねてみたところ 寛永元年に竹村丹後が奉行であったとき、川井小右衛門と 渡三郎衛門というのが調査した検地帳の写しに、畑九畝拾歩浅利 寺と記して、石高のつけられていない除地にしてあるとこのことです。(しかし)元の帳面は紛失しているそうであります。 しかし寺社領引き渡し帳には記載がありません。 一般的に境内ばかりの除地の場合には引渡し寺社領帳には載せて いないこともあるそうです。 一右の類は前々から村方から願い出もよくあるのですが、引渡し 寺社領帳に記載がない分は、役所で認めることが出来ないと申し渡しました。 しかし、今回は黄檗山萬福寺から文書が 送られて来たので、大森の現地では判断出来ないので、江戸で聞くことにします。 午九月
覚 一、この度、銀山の山師から(幕府へ)お願い申し上げた休谷に新 たに開いた坑道の修復と柑子谷の排水工事の費用として拝 借銀二百貫匁(二十万匁)をご命じくだされば、ご損害 を与えることなくきちんと工事を完成させます。この拝借銀の返 納については、いつ取立てられても 少しも遅れることなくきっと上納させます。以上。 享保十一年午九月 勝岡平八より 宗岡安兵衛まで
脚註
コメント
<comments hideform="false" /> トーク:江戸へ持参の書物留