「慶応三年 願書扣」の版間の差分
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− | + | 恐れながら書付をもちましてお願いを申しあげます | |
− | + | 大家組邑智郡大貫村庄屋久左衛門が恐れながら申上げます。 | |
− | + | 私は卑しい身分のものなので、大げさに申し立てるようになってしまうのは恐れ入ることなのですが、 | |
− | + | 私より十二代前の野坂市介が当主だった代には、田畑山林などもそれなりに所持しており、 | |
− | + | 鉄山数か所も経営していました。 | |
− | + | また、沖船三艘を持っており、御先祖元就様の御代には船手御用を務め、御目見えを許され、 | |
− | + | 廣政の作った脇差を拝領いたしました。 | |
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− | + | 輝元様御代も替わらず御用を勤めたので御目見えをたまわり、 | |
− | + | 温泉村沖の浦という所に屋敷地を拝領いたしました。 | |
− | + | 毛利家から頂いた御判物は今に至るまで有難く、家宝として尊仰しております。 | |
− | + | 野坂市介が頂いた物ですが、市介が年老いて死んでしまい、 | |
− | + | 息子の藤松はまだ幼いので、母親が諸事世話取をいたし、 | |
− | + | 毛利家に対する船方の供出だけは親戚に頼みました。 | |
− | + | その折、温泉津村の明屋敷を預けてくれるようお願いしたところ、 | |
− | + | 当時のご城主児玉美濃守就久様武安孫三郎元種様ご両人から | |
− | + | 聞き届けたという書付が藤松の母へ下されました。 | |
− | + | 藤松は成人してから久左衛門と改名しました。 | |
− | + | 長子久左衛門二男金九郎の二人があります | |
− | + | 兄の久左衛門の頃は既に | |
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− | + | 徳川様の御治世になっていたのですけども、 | |
− | + | 毛利家から代々厚く恩義を受けておりましたこと感じ入って、 | |
− | + | 元禄年間の前には御国を慕って、 | |
− | + | 長州萩へ参り西田町へ住み、生まれ故郷の | |
− | + | 大貫村の住所地名で中村というのを苗字にして、 | |
− | + | 中村久左衛門と名乗り、相変わらず御用を勤めました。大 | |
− | + | 貫村の方は家屋敷田畑山林そのほかすべてを、 | |
+ | 弟の野坂金九郎へ譲りました。そのころ前後には、度々 | ||
+ | 御用銀なども久左衛門と金九郎から毛利家へ差し出して、そのことを証する御書き | ||
+ | 下しも数通有ります。したがって、その時の | ||
+ | 御判物そのほか古い文書などもご覧いただく備えができております。 | ||
+ | そうしている所、金九郎には実子がいなかったので、 | ||
+ | 萩の方へいった兄の中村久左衛門の次男の | ||
+ | 辰右衛門という者を世継ぎに貰い受けました。久左衛門の方の嫡子の | ||
+ | 喜左衛門は相変わらず御用を勤め、 | ||
+ | お目見えも命じられていましたところ、喜左衛門が死去した後は、 | ||
+ | どのような事情なのでしょうか、中村の方は(萩から)撤退し、生国(石見) | ||
+ | に戻り、家族も大貫村へ引き取りました。 | ||
+ | その頃までは、厚く御恩沢をいただき、 | ||
+ | 苗字帯刀などの情け、 | ||
+ | お目見え等も命じられ、石見と長門の両所で | ||
+ | 御用も勤めていました所、 | ||
+ | 徳川様が治める世の中になってからは、平百姓同様に苗字帯刀もいたしませんようなっておりますが、 | ||
+ | おおよそ代々役人としての勤めもこなし、 | ||
+ | 先祖始まって以来、二十代あまりも続いております家筋のものでございますので、 | ||
+ | どうか特別の評議を持ちまして以前の通り苗字を名乗ることができますよう、 | ||
+ | ご決定をお命じ下しおかれますなら、重ね重ねお恵みを有り難き幸せと存じたてまつります。 | ||
+ | 右のことは悪くないようお考えられ、願いの旨をお許しの程、ひたすら願い上げます。以上。 | ||
+ | |||
+ | 慶応三丁卯十一月 大家組 | ||
+ | 邑智郡 | ||
+ | 大貫村 | ||
+ | 庄屋 | ||
+ | 久左衛門 | ||
+ | 庄屋見習い | ||
+ | 忰 金九郎 | ||
+ | 大森 | ||
+ | 御本陣所 | ||
== 脚註 == | == 脚註 == |
2014年6月17日 (火) 03:42時点における版
目録番号:な40
担当:島根大学法文学部社会文化学科歴史と考古コース古文書ゼミ
文書画像と釈文・書下し文
1枚目(全5枚の内)
慶応三年 卯十一月 願書扣
2枚目(全5枚の内)
乍恐以書附奉願上候 大家組邑智郡大貫村庄屋久左衛門乍恐奉 申上候 私儀卑賤之身分ニ而事々敷申立 候様相当り可申奉恐入候儀ニ者候得共私ゟ十二代 前先祖野坂市介代ニ者田畑山林等も相応ニ所持 鉄山も数ヶ所相稼沖船三艘も所持仕 御先祖元就様御代船手御用も相勤 御目見被仰付候由緒を以廣政之小脇差 拝領仕
恐れながら書付を以て願い上げ奉りそうろう 大家組邑智郡大貫村庄屋久左衛門恐れながら 申上げ奉りそうろう 私儀卑賤の身分にて事々しく申立て そうろう様あい当たり申すべく恐れ入り奉りそうろう儀にはそうらえども、私より十二代 前先祖野坂市介代には田畑山林なども相応に所持、 鉄山も数か所相稼ぎ、沖船三艘も所持仕り、 御先祖元就様御代船手御用もあい勤め、 御目見え仰せ付けられそうろう由緒をもって、廣政の小脇差 拝領仕り、
3枚目(全5枚の内)
輝元様御代も不相替御用相勤 御目見被仰付且温泉村字沖之浦与 申所ニ而屋敷地拝領被仰付 御判物頂戴仕当時迄も難有乍恐家宝 与奉尊仰候儀ニ御座候右市介者及老年 死去仕忰藤松儀幼少ニ付諸事母世 話取いたし船方御用向者親類共江相頼 世話為致其節温泉津村ニおいて明屋敷 御預ヶ被下度奉願候処其頃之御城代 (就) 児玉美濃守龍久様武安孫三郎元種様 御両所ゟ御聞届之御書付藤松母江 御下渡被下藤松事成人之後久左衛門 と改名仕其嫡子久左衛門ニ男金九郎与両人 御座候処兄久左衛門儀者其頃既ニ 徳川様御治世ニ相成居候得共 長州御家御代々厚奉蒙 御恩沢候儀を感考(かんこう)仕元禄前奉泰((ママ)) 御国長州萩江罷越西田町江住居生国
輝元様御代もあい替わらず御用あい勤め、 御目見え仰せ付けられ、かつ温泉村字沖の浦と 申すところにて屋敷地拝領仰せ付けられ 御判物頂戴仕り、当時迄も有り難恐れ乍ら 家宝と尊仰奉り候儀に御座候。右市介は老 年に及び死去仕り、忰藤松儀幼少に付、諸 事母世話取いたし、船方御用向は親類共へ 相頼世話致させ、其節温泉津村において明 屋敷御預け下されたく願い奉り候処、其頃 の御城代児玉美濃守就久様武安孫三郎元種 様御両所より御聞届の御書付藤松母へ御下 げ渡し下さる。藤松事成人の後久左衛門と 改名仕。其嫡子久左衛門二男金九郎と両人 御座候処兄久左衛門儀はその頃既に 徳川様御治世にあい成り居りそうらえども、 長州御家御代々厚く御恩沢蒙り奉り 候儀を感考仕り、元禄前御国泰んじ(慕いヵ)奉り 長州萩へ罷り越し西田町へ住居、生国
4枚目(全5枚の内)
大貫村住所地名中村与唱候を苗字ニ仕 中村久左衛門与名乗不相替御用相勤大 貫村之方者家屋敷田畑山林其外共 弟野坂金九郎江相譲其頃前後ニ度々 御用銀等茂久左衛門金九郎ゟ差出御書 下も数通有之則 御判物其外旧書等奉備 御覧候通ニ御座候然ル所金九郎方実子 無之候ニ付萩表ニ罷在候兄中村久左衛門二男 辰右衛門と申を世継ニ貰受久左衛門方者嫡子 喜左衛門相続不相替御用相勤 御目見も被仰付候処同人死去後如何 之次第ニ候哉中村方者相仕廻元生国 之儀ニ付家族者大貫村江引取候由ニ而 其頃迄者厚奉蒙 御恩沢苗字帯刀種々之恵 御目見等も被仰付当国御国両所 ニ而御用も相勤罷在候儀之所
大貫村住所地名中村と唱え候を苗字に仕り、 中村久左衛門と名乗り、相替わらず御用あい勤め、大 貫村の方は家屋敷田畑山林その外共 弟野坂金九郎へあい譲り、その頃前後に度々 御用銀なども久左衛門金九郎より差し出し、御書き 下しも数通これ有り、すなわち 御判物其外旧書など御覧に備え奉り 候通りに御座候 然る所、金九郎方実子 これ無くそうろうに付き、萩表に罷り在りそうろう兄中村久左衛門二男 辰右衛門と申すを世継ぎに貰い受け、久左衛門方は嫡子 喜左衛門相続相替わらず御用あい勤め お目見えも仰せ付けられそうろう処、同人死去後いかが の次第にそうろうや、中村方はあいしまい元生国 の儀に付き家族は大貫村へ引取りそうろうよしにて、 その頃までは厚く御恩沢を蒙り奉り 苗字帯刀種々の恵 お目見え等も仰せ付けられ、当国御国両所 にて御用もあい勤め罷り在りそうろう儀の所
5枚目(全5枚の内)
徳川様御治世ニ相成候而者平百姓同様苗字帯 刀も不仕様成行候得共大抵代々役儀も相 勤祖宗以来二十代余も相続仕候家筋 之ものニ御座候間何卒出格之以 御全(僉カ)義以前之通苗字相名乗候様御 沙汰被仰付被下置候ハヽ重畳 御恩澤難有仕合奉存候右之段不悪 被為思召訳願之趣 御許容之程偏奉願上候以上 慶応三丁卯十一月 大家組 邑智郡 大貫村 庄屋 久左衛門 庄屋見習 忰 金九郎 大森 御本陣所
徳川様御治世にあい成りそうらいては平百姓同様苗字帯 刀も仕らざる様成り行きそうらえども、大抵代々役儀もあい 勤め祖宗以来二十代あまりもあい続き仕り候家筋 のものにござそうろう間何とぞ出格の 御全(僉カ)義を以って以前の通り苗字あい名乗りそうろう様御 沙汰仰せ付けられ下し置かれそうらわば、重畳 御恩澤有り難き仕合わせに存じ奉りそうろう。右の段悪しからず、 思し召し訳けさせられ、願いの趣 御許容の程、ひとえに願い上げ奉りそうろう、以上 慶応三丁卯十一月 大家組 邑智郡 大貫村 庄屋 久左衛門 庄屋見習い 忰 金九郎 大森 御本陣所
現代語訳
恐れながら書付をもちましてお願いを申しあげます 大家組邑智郡大貫村庄屋久左衛門が恐れながら申上げます。 私は卑しい身分のものなので、大げさに申し立てるようになってしまうのは恐れ入ることなのですが、 私より十二代前の野坂市介が当主だった代には、田畑山林などもそれなりに所持しており、 鉄山数か所も経営していました。 また、沖船三艘を持っており、御先祖元就様の御代には船手御用を務め、御目見えを許され、 廣政の作った脇差を拝領いたしました。 輝元様御代も替わらず御用を勤めたので御目見えをたまわり、 温泉村沖の浦という所に屋敷地を拝領いたしました。 毛利家から頂いた御判物は今に至るまで有難く、家宝として尊仰しております。 野坂市介が頂いた物ですが、市介が年老いて死んでしまい、 息子の藤松はまだ幼いので、母親が諸事世話取をいたし、 毛利家に対する船方の供出だけは親戚に頼みました。 その折、温泉津村の明屋敷を預けてくれるようお願いしたところ、 当時のご城主児玉美濃守就久様武安孫三郎元種様ご両人から 聞き届けたという書付が藤松の母へ下されました。 藤松は成人してから久左衛門と改名しました。 長子久左衛門二男金九郎の二人があります 兄の久左衛門の頃は既に 徳川様の御治世になっていたのですけども、 毛利家から代々厚く恩義を受けておりましたこと感じ入って、 元禄年間の前には御国を慕って、 長州萩へ参り西田町へ住み、生まれ故郷の 大貫村の住所地名で中村というのを苗字にして、 中村久左衛門と名乗り、相変わらず御用を勤めました。大 貫村の方は家屋敷田畑山林そのほかすべてを、 弟の野坂金九郎へ譲りました。そのころ前後には、度々 御用銀なども久左衛門と金九郎から毛利家へ差し出して、そのことを証する御書き 下しも数通有ります。したがって、その時の 御判物そのほか古い文書などもご覧いただく備えができております。 そうしている所、金九郎には実子がいなかったので、 萩の方へいった兄の中村久左衛門の次男の 辰右衛門という者を世継ぎに貰い受けました。久左衛門の方の嫡子の 喜左衛門は相変わらず御用を勤め、 お目見えも命じられていましたところ、喜左衛門が死去した後は、 どのような事情なのでしょうか、中村の方は(萩から)撤退し、生国(石見) に戻り、家族も大貫村へ引き取りました。 その頃までは、厚く御恩沢をいただき、 苗字帯刀などの情け、 お目見え等も命じられ、石見と長門の両所で 御用も勤めていました所、 徳川様が治める世の中になってからは、平百姓同様に苗字帯刀もいたしませんようなっておりますが、 おおよそ代々役人としての勤めもこなし、 先祖始まって以来、二十代あまりも続いております家筋のものでございますので、 どうか特別の評議を持ちまして以前の通り苗字を名乗ることができますよう、 ご決定をお命じ下しおかれますなら、重ね重ねお恵みを有り難き幸せと存じたてまつります。 右のことは悪くないようお考えられ、願いの旨をお許しの程、ひたすら願い上げます。以上。 慶応三丁卯十一月 大家組 邑智郡 大貫村 庄屋 久左衛門 庄屋見習い 忰 金九郎 大森 御本陣所
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