「川本村と因原村の訴訟」の版間の差分
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その際、双方が立会い争っている山の絵図を作ること仰せ付けられたので、その意をうけ、絵図を作り指し上げました。 | その際、双方が立会い争っている山の絵図を作ること仰せ付けられたので、その意をうけ、絵図を作り指し上げました。 | ||
なにとぞ御慈悲御をもって吟味下されますよう、恐れながら願い上げ奉ります、詳細は左に申し上げ奉ります。 | なにとぞ御慈悲御をもって吟味下されますよう、恐れながら願い上げ奉ります、詳細は左に申し上げ奉ります。 | ||
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+ | 一、右の山境は、江の川の岸端にある、みそ谷下の木屋の先の | ||
+ | 峯境からはじまり、それから飛渡、田代、日向山、空山、かす峠、大槙平空、 | ||
+ | 小鉄場の空、さらに挽谷山から、一の丸二の丸、八色石村の境までである。 | ||
+ | 山境は峯分け、水流を境とし、東北は幕府領である川本村、 | ||
+ | 西南は浜田領の因原村から分かれ、前々から大峯や水流を区切りとして | ||
+ | 管理してきました。 | ||
== 脚註 == | == 脚註 == |
2015年12月1日 (火) 12:12時点における版
目録番号:ゆ401
担当:島根大学法文学部社会文化学科歴史と考古コース古文書ゼミ
文書画像・釈文・書き下し文
1枚目(全8枚の内)
乍恐以返答書奉申上候覚 本多中務大輔領分 石州邑智郡因原村 五郎右衛門 与兵衛 嘉兵衛 武右衛門 文三郎 重兵衛 小兵衛 同国同郡井原村 重右衛門 川崎平右衛門様御代官所 同国同郡川本村 相手 重郎兵衛
恐れながら返答書を以て申し上げ奉り候覚え 本多中務大輔領分 石州邑智郡因原村 五郎右衛門 与兵衛 嘉兵衛 武右衛門 文三郎 重兵衛 小兵衛 同国同郡井原村 重右衛門 川崎平右衛門様御代官所 同国同郡川本村 相手 重郎兵衛
2枚目(全8枚の内)
𠮷右衛門 善四郎 石州邑智郡因原村之者共乍恐申上候御料川本之 者共去ル申ノ閏十二月廿三日私共古来ゟ作配来候 因原村地内挽谷山江大勢ニ而罷越炭竈数ヶ所并 小屋迄焼払狼藉仕候ニ付早速以使相断地頭役人江 茂注進仕候所同月廿九日大森御役所ゟ御添状ヲ 以川本村之者共浜田表ヘ出訴仕候付私共浜田役所江 被呼出段々吟味之上大森御役所江添状相願返答 書持参仕御吟味奉願候所御料私領之出入御役所ニ而 御吟味難被成由ニ而御取上無御座候罷帰候其以後双方 より仲人共罷出取扱内済之儀仲人ゟ申談候得共相調 不申候ニ付川本村ゟ御訴訟申上御差紙頂戴仕 立会絵図被仰付奉畏則絵面奉指上候 何分以御慈悲御吟味被下置候様乍恐奉願上候 委細左ニ奉申上候 一右山境之儀ハ郷川端みそ谷下も之木屋之先 峯境ニ而夫より飛渡田代日向山空山かす峠大槙平空 小鉄場之空挽谷山より一ノ丸二ノ丸八色石村境まて 山境峯分水流境ニて東北ハ御料川本村
𠮷右衛門 善四郎 石州邑智郡因原村の者ども、恐れながら申し上げ候、御料川本の 者ども、去る申の閏十二月廿三日、私ども古来より作配来り候 因原村地内挽谷山へ大勢にて罷り越し、炭竈数ヶ所ならびに 小屋迄焼き払い狼藉仕り候に付き、早速使いを以ってあい断り、地頭役人へ も注進仕り候所、同月廿九日大森御役所より御添状を 以って川本村の者ども浜田表へ出訴仕り候付き、私ども浜田役所へ 呼び出され、だんだん吟味の上、大森御役所へ添状あい願い、返答 書持参仕り御吟味願い奉り候所、御料私領の出入御役所にて 御吟味成され難き由にて御取り上げ御座無く候、罷り帰り候、其れ以後双方 より仲人ども罷り出取扱い内済の儀、仲人より申し談じ候えども、あい調い 申さず候に付き、川本村より御訴訟申し上げ、御差紙頂戴仕り、 立会い絵図仰せ付けられ畏み奉り、則ち絵面指し上げ奉り候、 何分御慈悲を以て御吟味下し置かれ候様恐れながら願い上げ奉り候、 委細左に申し上げ奉り候 一右山境の儀は、郷の川端みそ谷しもの木屋の先 峯境にて、夫より飛び渡り田代日向山空山かす峠大槙平空 小鉄場の挽谷山より、一の丸二の丸八色石村境まで、 山境峯分け水流境にて、東北は御料川本村
3枚目(全8枚の内)
西南ハ濱田領因原村より相分前々より大峯水流限り 作配仕来り申候
西南は濱田領因原村よりあい分かれ、前々より大峯水流限り 作配仕り来り申し候
4枚目(全8枚の内)
5枚目(全8枚の内)
6枚目(全8枚の内)
7枚目(全8枚の内)
8枚目(全8枚の内)
現代語訳
恐れながら返答書を以て申し上げます覚え書き 本多中務大輔領分 石州邑智郡因原村 五郎右衛門 与兵衛 嘉兵衛 武右衛門 文三郎 重兵衛 小兵衛 同国同郡井原村 重右衛門 川崎平右衛門様御代官所 同国同郡川本村 相手 重郎兵衛 𠮷右衛門 善四郎 石州邑智郡因原村の者どもが、恐れながら申し上げます。御料(幕領)である川本村の者どもが、 去る申の閏十二月二十三日に、私どもが古来より管理してきました因原村地内の挽谷山へ大勢でやってきて、 炭竈を数ヶ所、それから小屋までも焼き払い乱暴狼藉を働いたので、 早速使いを出して(因原村に)知らせ、浜田藩領の役人へも急ぎ報告しました。 そうしたところ、同月二十九日に、大森御役所から御添状を貰った川本村の者どもが浜田藩へ出訴しましたので、 私どもは浜田の役所から呼び出され、あれこれと吟味が行われました。 私どもは浜田藩に添状を願い出て、返答書を持って大森御役所へ御吟味を願いましたところ、 幕府領と私領間の訴訟は御役所にて御吟味できないという理由で訴えを御取り上げないとされ、一旦帰りました。 その後、双方から仲裁人を出して調停をはかり、仲裁人から示談による和解が提案されましたが、 互いに折り合いがつかなかったので、川本村より(江戸の勘定奉行へ)御訴訟申し上げ、召喚状を頂戴しました。 その際、双方が立会い争っている山の絵図を作ること仰せ付けられたので、その意をうけ、絵図を作り指し上げました。 なにとぞ御慈悲御をもって吟味下されますよう、恐れながら願い上げ奉ります、詳細は左に申し上げ奉ります。
一、右の山境は、江の川の岸端にある、みそ谷下の木屋の先の 峯境からはじまり、それから飛渡、田代、日向山、空山、かす峠、大槙平空、 小鉄場の空、さらに挽谷山から、一の丸二の丸、八色石村の境までである。 山境は峯分け、水流を境とし、東北は幕府領である川本村、 西南は浜田領の因原村から分かれ、前々から大峯や水流を区切りとして 管理してきました。
脚註
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