「慶応三年 願書扣」の版間の差分
ナビゲーションに移動
検索に移動
83行目: | 83行目: | ||
=== 4枚目(全5枚の内) === | === 4枚目(全5枚の内) === | ||
− | |||
[[ファイル:な40-4.JPG|600px]] | [[ファイル:な40-4.JPG|600px]] | ||
大貫村住所地名中村与唱候を苗字ニ仕 | 大貫村住所地名中村与唱候を苗字ニ仕 |
2014年6月17日 (火) 03:31時点における版
目録番号:な40
担当:島根大学法文学部社会文化学科歴史と考古コース古文書ゼミ
文書画像と釈文・書下し文
1枚目(全5枚の内)
慶応三年 卯十一月 願書扣
2枚目(全5枚の内)
乍恐以書附奉願上候 大家組邑智郡大貫村庄屋久左衛門乍恐奉 申上候 私儀卑賤之身分ニ而事々敷申立 候様相当り可申奉恐入候儀ニ者候得共私ゟ十二代 前先祖野坂市介代ニ者田畑山林等も相応ニ所持 鉄山も数ヶ所相稼沖船三艘も所持仕 御先祖元就様御代船手御用も相勤 御目見被仰付候由緒を以廣政之小脇差 拝領仕
恐れながら書付を以て願い上げ奉りそうろう 大家組邑智郡大貫村庄屋久左衛門恐れながら 申上げ奉りそうろう 私儀卑賤の身分にて事々しく申立て そうろう様あい当たり申すべく恐れ入り奉りそうろう儀にはそうらえども、私より十二代 前先祖野坂市介代には田畑山林なども相応に所持、 鉄山も数か所相稼ぎ、沖船三艘も所持仕り、 御先祖元就様御代船手御用もあい勤め、 御目見え仰せ付けられそうろう由緒をもって、廣政の小脇差 拝領仕り、
3枚目(全5枚の内)
輝元様御代も不相替御用相勤 御目見被仰付且温泉村字沖之浦与 申所ニ而屋敷地拝領被仰付 御判物頂戴仕当時迄も難有乍恐家宝 与奉尊仰候儀ニ御座候右市介者及老年 死去仕忰藤松儀幼少ニ付諸事母世 話取いたし船方御用向者親類共江相頼 世話為致其節温泉津村ニおいて明屋敷 御預ヶ被下度奉願候処其頃之御城代 (就) 児玉美濃守龍久様武安孫三郎元種様 御両所ゟ御聞届之御書付藤松母江 御下渡被下藤松事成人之後久左衛門 と改名仕其嫡子久左衛門ニ男金九郎与両人 御座候処兄久左衛門儀者其頃既ニ 徳川様御治世ニ相成居候得共 長州御家御代々厚奉蒙 御恩沢候儀を感考(かんこう)仕元禄前奉泰((ママ)) 御国長州萩江罷越西田町江住居生国
輝元様御代もあい替わらず御用あい勤め、 御目見え仰せ付けられ、かつ温泉村字沖の浦と 申すところにて屋敷地拝領仰せ付けられ 御判物頂戴仕り、当時迄も有り難恐れ乍ら 家宝と尊仰奉り候儀に御座候。右市介は老 年に及び死去仕り、忰藤松儀幼少に付、諸 事母世話取いたし、船方御用向は親類共へ 相頼世話致させ、其節温泉津村において明 屋敷御預け下されたく願い奉り候処、其頃 の御城代児玉美濃守就久様武安孫三郎元種 様御両所より御聞届の御書付藤松母へ御下 げ渡し下さる。藤松事成人の後久左衛門と 改名仕。其嫡子久左衛門二男金九郎と両人 御座候処兄久左衛門儀はその頃既に 徳川様御治世にあい成り居りそうらえども、 長州御家御代々厚く御恩沢蒙り奉り 候儀を感考仕り、元禄前御国泰んじ(慕いヵ)奉り 長州萩へ罷り越し西田町へ住居、生国
=== 4枚目(全5枚の内) ===
大貫村住所地名中村与唱候を苗字ニ仕 中村久左衛門与名乗不相替御用相勤大 貫村之方者家屋敷田畑山林其外共 弟野坂金九郎江相譲其頃前後ニ度々 御用銀等茂久左衛門金九郎ゟ差出御書 下も数通有之則 御判物其外旧書等奉備 御覧候通ニ御座候然ル所金九郎方実子 無之候ニ付萩表ニ罷在候兄中村久左衛門二男 辰右衛門と申を世継ニ貰受久左衛門方者嫡子 喜左衛門相続不相替御用相勤 御目見も被仰付候処同人死去後如何 之次第ニ候哉中村方者相仕廻元生国 之儀ニ付家族者大貫村江引取候由ニ而 其頃迄者厚奉蒙 御恩沢苗字帯刀種々之恵 御目見等も被仰付当国御国両所 ニ而御用も相勤罷在候儀之所
大貫村住所地名中村と唱え候を苗字に仕り、 中村久左衛門と名乗り、相替わらず御用あい勤め、大 貫村の方は家屋敷田畑山林その外共 弟野坂金九郎へあい譲り、その頃前後に度々 御用銀なども久左衛門金九郎より差し出し、御書き 下しも数通これ有り、すなわち 御判物其外旧書など御覧に備え奉り 候通りに御座候 然る所、金九郎方実子 これ無くそうろうに付き、萩表に罷り在りそうろう兄中村久左衛門二男 辰右衛門と申すを世継ぎに貰い受け、久左衛門方は嫡子 喜左衛門相続相替わらず御用あい勤め お目見えも仰せ付けられそうろう処、同人死去後いかが の次第にそうろうや、中村方はあいしまい元生国 の儀に付き家族は大貫村へ引取りそうろうよしにて、 その頃までは厚く御恩沢を蒙り奉り 苗字帯刀種々の恵 お目見え等も仰せ付けられ、当国御国両所 にて御用もあい勤め罷り在りそうろう儀の所
5枚目(全5枚の内)
慶応三年 卯十一月 願書扣
現代語訳
松江城ニの丸のお蔵入り米を私どもに仰せつけられたけれども 算段がつきませんので、あなた様へ御頼みいたしましたところ、前書きの銀子をお貸し くださることにことになり、たしかに受け取りました。 お借りしたうえは、3月から12月まで1割半の利息で元利ともに不足なく返済いたします。 万一私ども借主がお返しできなかった時には、請け人が日限迄にきっとお返し致します。 間違えなくお返しいたします。返済について御念を入れられたので、宝暦14年11月、神門郡にて 24ヵ村より別紙証文をお渡しした通り、少しも相違無くお返し致します。 このように決めたうえは、いかなる別の新しい法律ができたとしても、間違えなくお返し致します。以上の通り、後日、 請け人及びお役所の奥書きを取りお渡ししました。 宝暦14年申4月(明和元年・1764年)[1]
ニの丸お蔵入り米を才覚できず、丁銀25貫目の借用申し込みをする。 これによって米を上納した 3月~12月まで一割半の利で返済を約束する
■借主 雲州神門郡大津の山田又右衛門、森廣幾太
■保証人 雲州郡知伊宮の山本仁兵衛、杵築の藤間久左衛門、松江の森脇甚右衛門
■貸主 西田屋幾六、角屋庄十郎
■松江藩勝手方役人、奉行が連著保証の奥書きをしている
勝手方役人 和田理八、岡本彦助、田中幸平、後藤九兵衛、荒井助市
勝手方奉行 磯崎丈太夫、湯川治兵衛、山本覚兵衛
脚註
- ↑ 脚註のダミーです。
コメント
<comments hideform="false" /> トーク:慶応三年 願書扣