「浜田領渡利村書付2」の版間の差分

提供:石見銀山領33ヵ寺巡り
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[[Category:中村家文書|]]
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目録番号:ま
目録番号:ま1-2
 
  
 
担当:島根大学法文学部社会文化学科歴史と考古コース古文書ゼミ
 
担当:島根大学法文学部社会文化学科歴史と考古コース古文書ゼミ
  
担当:古文書に親しむ会 in 桜江
 
  
担当:古文書に親しむ会 in 松江
+
== 文書画像と釈文,書き下し文 ==
  
 +
=== 1枚目(全4枚の内) ===
  
== 文書画像と釈文 ==
+
[[ファイル:P1030205.JPG|600px]]
 
+
        御吟味ニ付申上候書付
=== 1枚目(全2枚の内) ===
+
  一浜田領渡里村松浦屋藤左衛門ゟ此度相願候ハ
 
+
   私父幾六碑之銘ニ大貫村西田屋金九郎ニ
[[ファイル:2-1-1.JPG|600px]]
+
   仕与相記有之上ハ下代筋ニ相違無之旨
 
+
   藤左衛門ゟ申之則碑之銘写差出候ニ付私江
       借用申銀子事
+
   被遊御見被仰聞候ハ十二才ゟ三拾九才迄
  丁銀弐拾五貫目也  但 申三月元日十二月切利ノ分壱割半ニシテ
+
   金九郎ニ仕ト有之候得ハ下代ニ相違無之処
右者二之丸御蔵入米我等共江被 仰付候處
+
   下代ニ而ハ無之旨段々是迄申上候段
才覚不相成貴殿へ御頼申入候得者前書之銀御貸
+
   不埒之旨御吟味ニ御座候
被下、慥借用仕、米上納仕候所、実正也、然上者三月より
+
   
十二月迄壱割半之加利にて元利無不足返済可仕候
+
  此段先達而御答ニも奉申上候通大貫村西田屋元祖
万一本人不埒仕候ハバ請人より日限ニ急度埒明可申候
+
  久左衛門娘まんと申もの当御料小谷村五右衛門と
返弁方之儀被入御念候ニ付、此月当神門郡ニ而弐拾
+
  申者方江縁付出生之子供四人有之惣領源右衛門
四ケ村より別紙證文相渡候通少無相違返弁可仕候
+
  と申もの父五右衛門家相続仕
  ケ様相定候上者仮令如何様之不慮新規
+
  浜田御領渡里村松浦屋庄左衛門娘を妻
  御国法出来候共、毛頭相違申間敷候条後日
+
  仕出生之子供六人有之
  請人并御役所御奥書取之相渡申所
 
              仍如件
 
               雲州神門郡大津借主
 
                    山田 又左衛門  印
 
    宝暦十四申十一月   同所  同断
 
                    森廣 幾太    印 
 
               同郡  知井宮
 
                    山本 仁兵衛   印
 
               同郡  杵築請人
 
                    藤間 久左衛門  印
 
               松江請人
 
                    森脇 甚右衛門  印
 
  
=== 2枚目(全2枚の内) ===
 
  
[[ファイル:2-1-2.JPG|600px]]
+
       御吟味に付き申し上げ候書付
 
+
  一、浜田領渡里村松浦屋藤左衛門よりこの度相願い候は、
      石州銀山御領
+
   私父幾六碑の銘に、大貫村西田屋金九郎に
          西田屋喜六 殿
+
   仕ると相記しこれ有る上は、下代筋に相違これ無き旨
          角屋庄十郎 殿
+
   藤左衛門これを申せば、則ち碑の銘写し差し出し候に付き私へ
前書之通承届御返弁之儀相違無之様
+
   御見せ遊ばされ仰せ聞けら候は、十二才より三十九才まで
急度可申付候御奥書如件
+
   金九郎に仕るとこれ有り候えば、下代に相違これ無き処、
             雲州勝手方役
+
   下代にてはこれ無き旨、段々これまで申し上げ候段、
                 和田 理八
+
   不埒の旨御吟味に御座候惣領
                 岡本 彦助
 
                 田中 幸平
 
                   後藤 久兵衛
 
                   荒井 助市
 
               同奉行
 
                  磯崎 丈太夫
 
                  湯川 冶兵衛
 
                  山本 覚兵衛
 
              西田屋 喜六 殿
 
              角屋  庄十郎殿
 
 
 
 
 
== 書き下し文 ==
 
 
 
  借用申す銀子のこと
 
 
   
 
   
   丁銀二拾五貫目なり   但し申三月元日十二月切
+
  此の段先達て御答えにも申し上げ奉り候通り、大貫村西田屋
                 利ノ分一割半ニシテ
+
  元祖久左衛門娘まんと申すもの、当御料小谷村五右衛門と
   
+
  申す者方江縁付き、出生の子供四人これ有り、惣領源右衛門
  右は二の丸お蔵入り米我ら共へ、仰せつけられ候ところ
+
  と申すもの、父五右衛門家相続仕り、
  才覚相ならず。貴殿へ御頼み申し入れ候へば、前書の銀御貸し
+
  浜田御領渡里村松浦屋庄左衛門娘を妻
  下され、たしかに借用つかまつり、米上納仕り候所、実正なり、しかる上は三月より
+
  に仕り、出生の子供六人これ有り。惣領
十二月まで一割半の加利にて元利不足なく返済仕るべく候
 
万一本人不埒仕り候はば、請け人より日限にきっとらち明け申すべく候
 
返弁方の儀ご念を入れられ候につき、この月当神門郡にて二十
 
四ヵ村より別紙証文相渡し候とおり少しも相違なく返弁仕るべく候
 
かようあい定め候上はたとえいかようの不慮新規
 
御国法しゅったい候とも、もうとう相違申すまじく候条後日
 
請け人ならびにお役所御奥書きこれを取り相渡し申すところ
 
よって件のごとし
 
 
前書きのとおり承り届けお返弁の儀 相違これ無きよう
 
きっと申しつくべく候御奥書き件のごとし
 
  
 
== 現代語訳 ==
 
  
松江城ニの丸のお蔵入り米を私どもに仰せつけられたけれども
+
=== 2枚目(全4枚の内) ===
算段がつきませんので、あなた様へ御頼みいたしましたところ、前書きの銀子をお貸し
 
くださることにことになり、たしかに受け取りました。
 
お借りしたうえは、3月から12月まで1割半の利息で元利ともに不足なく返済いたします。
 
万一私ども借主がお返しできなかった時には、請け人が日限迄にきっとお返し致します。
 
間違えなくお返しいたします。返済について御念を入れられたので、宝暦14年11月、神門郡にて
 
24ヵ村より別紙証文をお渡しした通り、少しも相違無くお返し致します。
 
このように決めたうえは、いかなる別の新しい法律ができたとしても、間違えなくお返し致します。以上の通り、後日、
 
請け人及びお役所の奥書きを取りお渡ししました。
 
宝暦14年申4月(明和元年・1764年)<ref>脚註のダミーです。</ref>
 
  
ニの丸お蔵入り米を才覚できず、丁銀25貫目の借用申し込みをする。
+
[[ファイル:P1030206.JPG|600px]]
これによって米を上納した
+
  忠治郎と申もの親源右衛門家相続致シ二男ハ私父
3月~12月まで一割半の利で返済を約束する
+
  幾六ニ而世参為見習之大貫村西田屋金九郎方へ
 +
  遣世話仕其後浜原村江住居仕相果候ニ付
 +
  父幾六一生之成行を記候碑之銘ニ暫西田屋江
 +
  入込居候内を子分も難仕金九郎ニ仕ヱ候と
 +
  記候儀ニ而下代と申事ニ而者無御坐候尤此儀
 +
私方ニ而格別申争ひ候筋ニ者無御座候得共縦父
 +
幾六入込世話致居候内を下代と申唱候迚も
 +
元祖より之由緒血筋紛無之右縁合を以
 +
大貫村西田屋七代目助五郎指図仕私妹ヲ久左衛門
 +
妻ニ遣し其後又々親類とも取持を以久左衛門妹ヲ
 +
私妻ニ仕猶又幸蔵妻ニ私娘みねを遣し候も
 +
久左衛門遺言ニ而指遣し段々重縁ニ罷成候ニ付
 +
久左衛門ゟ西田屋一式私江譲り置候儀と奉存候
 +
然レとも私自分家業之世話方も届兼其
 +
上実子幸蔵も有之儀故再三辞退
 +
仕候へとも右譲り置候儀者格別之内存有之
 +
儀故何分請相呉候様達而相頼候ニ付私
 +
譲り請候儀ニ御座候処藤左衛門より家督押
 +
領仕候などと申上候段不法千万成申方ニ
 +
御座候
  
■借主 雲州神門郡大津の山田又右衛門、森廣幾太
 
  
■保証人 雲州郡知伊宮の山本仁兵衛、杵築の藤間久左衛門、松江の森脇甚右衛門
 
  
■貸主 西田屋幾六、角屋庄十郎
+
  忠治郎と申す者、親源右衛門家相続致し、二男は私父
 +
 幾六にて、世参見習いの為め大貫村西田屋金九郎方へ
 +
  遣わし、世話仕り、その後浜原村へ住居仕り相果て候につき、
 +
  父幾六一生之成り行きを記し候碑の銘に、暫く西田屋へ
 +
  入り込み居り候内を、子分も仕りがたく金九郎に仕え候と
 +
  記し候儀にて、下代と申す事にては御座なく候尤もこの儀
 +
私方にて格別申し争ひそうろう筋には御座なくそろえども、たとい、父
 +
幾六入り込み世話致し居りそうろう内を、下代と申し唱えそうろうとても、
 +
元祖よりの由緒血筋紛れこれなく、右縁合を以って
 +
大貫村西田屋七代目助五郎差図仕り、私妹を久左衛門
 +
妻に遣し、その後、又々親類とも取り持ちを以って、久左衛門妹を
 +
私妻に仕り、猶お又、幸蔵妻に私娘みねを遣しそうろうも
 +
久左衛門遺言にて指し遣し、段々重縁に罷り成りそうろうに付き
 +
久左衛門より西田屋一式私へ譲り置きそうろう儀と存じ奉りそうろう
 +
然れとも、私自分家業の世話方も届き兼ねその
 +
  上、実子幸蔵もこれ有る儀ゆえ、再三辞退
 +
  仕り候へとも、右譲り置き候儀は、格別の内存これ有る
 +
  儀ゆえ、何分請け相いくれ候様、達て相頼み候に付き私
 +
  譲り請け候儀に御座候処、藤左衛門より家督押
 +
  領仕り候などと申上げ候段、不法千万成り申す方に
 +
  御座候
  
■松江藩勝手方役人、奉行が連著保証の奥書きをしている
+
=== 3枚目(全4枚の内) ===
  
    勝手方役人 和田理八、岡本彦助、田中幸平、後藤九兵衛、荒井助市
+
[[ファイル:P1030207.JPG|600px]]
 +
尤譲証文無之引請世話仕候ハヽ
 +
右体申上候筋も可有御坐哉ニ候得とも元祖
 +
ゟ之血筋其後段々重縁其上譲証文
 +
を以無拠世話仕何卒久左衛門実子弁治江
 +
少しも早ク家督引渡申度彼是心配仕候
 +
処藤左衛門ゟ不存寄御訴訟奉驚入候右
 +
                組     
 +
西田屋私間柄之儀代々致親敷縁合取組候
 +
儀ハ藤左衛門いまた松浦屋ヘ不入込内ニ御座候へ者
 +
一向不存儀ニ御座候へとも其後私娘幸蔵妻ニ
 +
遣シ候節ハ藤左衛門儀松浦屋相続仕罷在候間
 +
右体下代筋を改候ハヽ其節ニ而茂藤左衛門存寄
 +
可申出筈猶更譲り証文渡候節ハ縦他出
 +
仕候とも罷帰り候ハゝ早速西田屋成行を尋
 +
幸蔵存命之内彼是可申出儀ニ候得とも
 +
幸蔵存命之内ニ而者譲り証文謀書謀計
  
    勝手方奉行 磯崎丈太夫、湯川治兵衛、山本覚兵衛
 
  
  
== 脚註 ==
+
尤も譲証文これ無く引き請け世話仕り候はば、
 +
右体申し上げ候筋も御坐有るべきやに候えども、元祖
 +
よりの血筋、その後段々重縁、その上譲り証文
 +
を以て拠無く世話仕り、何とぞ久左衛門実子弁治へ
 +
少しも早く家督引き渡し申したく彼これ心配仕り候
 +
処、藤左衛門より存じ寄らざる御訴訟驚き入り奉り候、右
 +
西田屋私間柄の儀、代々親しく致し縁合取組候儀は、
 +
藤左衛門、未だ松浦屋へ入り込まざる内に御座候へば、
 +
一向存ぜざる儀に御座候へども、その後、私娘幸蔵妻に
 +
遣わし候節は、藤左衛門儀松浦屋相続仕り罷り在り候間、
 +
右体下代筋を改め候はば、その節にても、藤左衛門存じ寄り
 +
申し出ずべき筈 猶お更譲り証文渡し候節は、縦い他出
 +
仕り候とも罷り帰り候はば、早速西田屋成り行きを尋ね
 +
幸蔵存命の内かれこれ申し出ずべき儀に候えとも
 +
幸蔵存命の内にては譲り証文謀書謀計
  
<references />
+
=== 4枚目(全4枚の内) ===
  
 +
[[ファイル:P1030209.JPG|600px]]
 +
  なとゝ申我侭之難渋難申五年以来捨置候
 +
  儀と奉存候
  
== コメント ==
+
  などと申す、我侭の難渋申し難く、五年以来捨て置き候
 +
  儀と存じ奉り候
  
<comments hideform="false" />
+
== 現代語訳 ==
{{:ノート:{{PAGENAME}}}}
+
    御吟味にあたって申し上げる書付
<div class="boilerplate metadata plainlinks">
+
一、浜田領渡里村松浦屋藤左衛門がこの度願い出た際に、
{| cellspacing="2" cellpadding="3" style="text-align:center;width:80%;border:solid #999 1px;background:#F8F8F8;margin:0.5em auto;clear:both"
+
 「私幾六の碑の銘に、大貫村西田屋金九郎に
|この項目「'''{{PAGENAME}}'''」は、まだ書きかけの項目です。
+
 仕ると記してある上は、下代筋に相違無い」という旨を
|}
+
 藤左衛門が申し、碑の銘の写を差し出したようです。それを私へ
</div>
+
 お見せになりお聞ききになるには、「十二才より三十九才まで
[[Category:中村家文書|あ]]
+
 金九郎に仕る」とあるので、下代に相違無いにもかかわらず、
[[Category:松江藩関係|あ]]
+
 下代にでは無いという旨を、私がこれまで申し上げたことは、
目録番号:ま1-2
+
 不埒だという旨の御吟味にございます。
 +
 +
このことについてはこの間のお答えにも申しました通りえす。
 +
大貫村西田屋の元祖久左衛門の娘でまんというものがいますが、
 +
当御料小谷村五右衛門という者と結婚しました。子供は四人生まれました。
 +
このうち惣領源右衛門というものが、父である五右衛門の家を相続しました。
 +
そして、浜田御領渡里村松浦屋庄左衛門の娘を妻とし、子供は六人産まれました。
  
担当:島根大学法文学部社会文化学科歴史と考古コース古文書ゼミ
+
  長男の忠治郎は親の源右衛門の家を相続致し、二男は私の父で幾六と申しますが、
 
+
  世参見習いのために大貫村の西田屋金九郎方へ遣わされ、世話になりましたが、
担当:古文書に親しむ会 in 桜江
+
  その後、浜原村に住居しそこで亡くなりました。そこで、父幾六の一生の成り行き
 +
  を記した碑の銘に、暫く西田屋に入り込み居るうちのことを養子ともいえないので、
 +
  金九郎に仕えていたと記したので、下代と申す事ではございません。
 +
 +
  もっとも、このことは、私の方で争点にしたいというわけではありません。
 +
  たとえ、父幾六が入り込んで世話をしていたのを下代という名目であっても、
 +
  元祖よりの血筋に紛らわしい点はありません。
 +
  この縁をもって、大貫村西田屋七代目助五郎の指図により、私の妹を久左衛門の妻に遣わし
 +
  その後また、親類たちが取り持って、久左衛門の妹が私の妻になりました。
 +
  また、幸蔵の妻には私の娘みねを久左衛門の遺言により遣わしましたが、段々重縁になってきたので、
 +
  久左衛門から西田屋一式を私へ譲り置くということになりました。
  
担当:古文書に親しむ会 in 松江
+
  ただし、譲り証文が無いまま世話を引き請けていれば、その主張が成り立つのかもしれませんが、
 
+
  しかし元祖から血筋がつながっていて、その後何回も血縁関係を重ねており、
 
+
  その上譲り証文もあって仕方なく家督の世話をすることになったのでございます。
== 文書画像と釈文 ==
+
  なんとか久左衛門の実子である弁治に、少しでも早く家督を引き渡したいと思っていていろいろ心配をしていたところ、
 
+
  藤左衛門から思いもよらないお訴えがあり、大変驚いているところでございます。
=== 1枚目(全2枚の内) ===
 
 
 
[[ファイル:2-1-1.JPG|600px]]
 
 
 
     借用申銀子事
 
  丁銀弐拾五貫目也  但 申三月元日十二月切利ノ分壱割半ニシテ
 
右者二之丸御蔵入米我等共江被 仰付候處
 
才覚不相成貴殿へ御頼申入候得者前書之銀御貸
 
被下、慥借用仕、米上納仕候所、実正也、然上者三月より
 
十二月迄壱割半之加利にて元利無不足返済可仕候
 
万一本人不埒仕候ハバ請人より日限ニ急度埒明可申候
 
返弁方之儀被入御念候ニ付、此月当神門郡ニ而弐拾
 
四ケ村より別紙證文相渡候通少無相違返弁可仕候
 
ケ様相定候上者仮令如何様之不慮新規
 
御国法出来候共、毛頭相違申間敷候条後日
 
請人并御役所御奥書取之相渡申所
 
            仍如件
 
             雲州神門郡大津借主
 
                  山田 又左衛門  印
 
  宝暦十四申十一月   同所  同断
 
                  森廣 幾太    印 
 
             同郡  知井宮
 
                  山本 仁兵衛   印
 
             同郡  杵築請人
 
                  藤間 久左衛門  印
 
               松江請人
 
                    森脇 甚右衛門  印
 
 
 
=== 2枚目(全2枚の内) ===
 
 
 
[[ファイル:2-1-2.JPG|600px]]
 
 
 
        石州銀山御領
 
            西田屋喜六 殿
 
          角屋庄十郎 殿
 
前書之通承届御返弁之儀相違無之様
 
急度可申付候御奥書如件
 
             雲州勝手方役
 
                 和田 理八
 
                 岡本 彦助
 
                 田中 幸平
 
                 後藤 久兵衛
 
                 荒井 助市
 
             同奉行
 
                磯崎 丈太夫
 
                湯川 冶兵衛
 
                山本 覚兵衛
 
            西田屋 喜六 殿
 
            角屋  庄十郎殿
 
 
 
 
 
== 書き下し文 ==
 
 
 
  借用申す銀子のこと
 
 
   
 
   
   丁銀二拾五貫目なり   但し申三月元日十二月切
+
  右に述べてきた、西田屋と私の間柄についてですが、代々親しく縁組をしてきていることは、
                 利ノ分一割半ニシテ
+
  藤左衛門がまだ松浦屋へ入っていないときの話ですので、藤左衛門が全く知らないということはあるでしょう。
   
+
  しかし、その後、私の娘を幸蔵の妻として嫁がせたときは、
  右は二の丸お蔵入り米我ら共へ、仰せつけられ候ところ
+
  藤左衛門はすでに松浦屋を相続していたので(私の家が)下代筋に当たるかどうかについて調査をしたならば、
  才覚相ならず。貴殿へ御頼み申し入れ候へば、前書の銀御貸し
+
  その際にも、藤左衛門は自分の考えを申し出るべきであった。
下され、たしかに借用つかまつり、米上納仕り候所、実正なり、しかる上は三月より
 
十二月まで一割半の加利にて元利不足なく返済仕るべく候
 
万一本人不埒仕り候はば、請け人より日限にきっとらち明け申すべく候
 
返弁方の儀ご念を入れられ候につき、この月当神門郡にて二十
 
四ヵ村より別紙証文相渡し候とおり少しも相違なく返弁仕るべく候
 
かようあい定め候上はたとえいかようの不慮新規
 
御国法しゅったい候とも、もうとう相違申すまじく候条後日
 
請け人ならびにお役所御奥書きこれを取り相渡し申すところ
 
よって件のごとし
 
 
前書きのとおり承り届けお返弁の儀 相違これ無きよう
 
きっと申しつくべく候御奥書き件のごとし
 
 
 
 
   
 
   
== 現代語訳 ==
+
 その上、譲り証文を渡したときには、たとえ他の村に出ていたとしても
 
+
 帰ってきたのならば、早速西田屋に成り行きを尋ね、
松江城ニの丸のお蔵入り米を私どもに仰せつけられたけれども
+
 幸蔵が生きている間にいろいろ異議申し立てするべきでしたが、
算段がつきませんので、あなた様へ御頼みいたしましたところ、前書きの銀子をお貸し
+
 幸蔵が生きている間においては、譲り証文が事実を曲げて書かれている
くださることにことになり、たしかに受け取りました。
+
 などととやかく言うことができず、五年以来なにか言うことをしなかった
お借りしたうえは、3月から12月まで1割半の利息で元利ともに不足なく返済いたします。
+
 ということでございます。
万一私ども借主がお返しできなかった時には、請け人が日限迄にきっとお返し致します。
 
間違えなくお返しいたします。返済について御念を入れられたので、宝暦14年11月、神門郡にて
 
24ヵ村より別紙証文をお渡しした通り、少しも相違無くお返し致します。
 
このように決めたうえは、いかなる別の新しい法律ができたとしても、間違えなくお返し致します。以上の通り、後日、
 
請け人及びお役所の奥書きを取りお渡ししました。
 
宝暦14年申4月(明和元年・1764年)<ref>脚註のダミーです。</ref>
 
 
 
ニの丸お蔵入り米を才覚できず、丁銀25貫目の借用申し込みをする。
 
これによって米を上納した
 
3月~12月まで一割半の利で返済を約束する
 
 
 
■借主 雲州神門郡大津の山田又右衛門、森廣幾太
 
 
 
■保証人 雲州郡知伊宮の山本仁兵衛、杵築の藤間久左衛門、松江の森脇甚右衛門
 
 
 
■貸主 西田屋幾六、角屋庄十郎
 
 
 
■松江藩勝手方役人、奉行が連著保証の奥書きをしている
 
 
 
    勝手方役人 和田理八、岡本彦助、田中幸平、後藤九兵衛、荒井助市
 
 
 
    勝手方奉行 磯崎丈太夫、湯川治兵衛、山本覚兵衛
 
 
 
  
 
== 脚註 ==
 
== 脚註 ==

2018年1月24日 (水) 04:11時点における最新版

目録番号:ま

担当:島根大学法文学部社会文化学科歴史と考古コース古文書ゼミ


文書画像と釈文,書き下し文[編集]

1枚目(全4枚の内)[編集]

P1030205.JPG

        御吟味ニ付申上候書付
一浜田領渡里村松浦屋藤左衛門ゟ此度相願候ハ
 私父幾六碑之銘ニ大貫村西田屋金九郎ニ
 仕与相記有之上ハ下代筋ニ相違無之旨
 藤左衛門ゟ申之則碑之銘写差出候ニ付私江
 被遊御見被仰聞候ハ十二才ゟ三拾九才迄
 金九郎ニ仕ト有之候得ハ下代ニ相違無之処
 下代ニ而ハ無之旨段々是迄申上候段
 不埒之旨御吟味ニ御座候

此段先達而御答ニも奉申上候通大貫村西田屋元祖
久左衛門娘まんと申もの当御料小谷村五右衛門と
申者方江縁付出生之子供四人有之惣領源右衛門
と申もの父五右衛門家相続仕
浜田御領渡里村松浦屋庄左衛門娘を妻
仕出生之子供六人有之


     御吟味に付き申し上げ候書付
一、浜田領渡里村松浦屋藤左衛門よりこの度相願い候は、
 私父幾六碑の銘に、大貫村西田屋金九郎に
 仕ると相記しこれ有る上は、下代筋に相違これ無き旨
 藤左衛門これを申せば、則ち碑の銘写し差し出し候に付き私へ
 御見せ遊ばされ仰せ聞けら候は、十二才より三十九才まで
 金九郎に仕るとこれ有り候えば、下代に相違これ無き処、
 下代にてはこれ無き旨、段々これまで申し上げ候段、
 不埒の旨御吟味に御座候惣領

此の段先達て御答えにも申し上げ奉り候通り、大貫村西田屋
元祖久左衛門娘まんと申すもの、当御料小谷村五右衛門と
申す者方江縁付き、出生の子供四人これ有り、惣領源右衛門
と申すもの、父五右衛門家相続仕り、
浜田御領渡里村松浦屋庄左衛門娘を妻
に仕り、出生の子供六人これ有り。惣領


2枚目(全4枚の内)[編集]

P1030206.JPG

 忠治郎と申もの親源右衛門家相続致シ二男ハ私父
 幾六ニ而世参為見習之大貫村西田屋金九郎方へ
 遣世話仕其後浜原村江住居仕相果候ニ付
 父幾六一生之成行を記候碑之銘ニ暫西田屋江
 入込居候内を子分も難仕金九郎ニ仕ヱ候と
 記候儀ニ而下代と申事ニ而者無御坐候尤此儀
私方ニ而格別申争ひ候筋ニ者無御座候得共縦父
幾六入込世話致居候内を下代と申唱候迚も
元祖より之由緒血筋紛無之右縁合を以
大貫村西田屋七代目助五郎指図仕私妹ヲ久左衛門
妻ニ遣し其後又々親類とも取持を以久左衛門妹ヲ
私妻ニ仕猶又幸蔵妻ニ私娘みねを遣し候も
久左衛門遺言ニ而指遣し段々重縁ニ罷成候ニ付
久左衛門ゟ西田屋一式私江譲り置候儀と奉存候
然レとも私自分家業之世話方も届兼其
上実子幸蔵も有之儀故再三辞退
仕候へとも右譲り置候儀者格別之内存有之
儀故何分請相呉候様達而相頼候ニ付私
譲り請候儀ニ御座候処藤左衛門より家督押
領仕候などと申上候段不法千万成申方ニ
御座候


 忠治郎と申す者、親源右衛門家相続致し、二男は私父
 幾六にて、世参見習いの為め大貫村西田屋金九郎方へ
  遣わし、世話仕り、その後浜原村へ住居仕り相果て候につき、
  父幾六一生之成り行きを記し候碑の銘に、暫く西田屋へ
  入り込み居り候内を、子分も仕りがたく金九郎に仕え候と
  記し候儀にて、下代と申す事にては御座なく候尤もこの儀
私方にて格別申し争ひそうろう筋には御座なくそろえども、たとい、父
幾六入り込み世話致し居りそうろう内を、下代と申し唱えそうろうとても、
元祖よりの由緒血筋紛れこれなく、右縁合を以って
大貫村西田屋七代目助五郎差図仕り、私妹を久左衛門
妻に遣し、その後、又々親類とも取り持ちを以って、久左衛門妹を
私妻に仕り、猶お又、幸蔵妻に私娘みねを遣しそうろうも
久左衛門遺言にて指し遣し、段々重縁に罷り成りそうろうに付き
久左衛門より西田屋一式私へ譲り置きそうろう儀と存じ奉りそうろう
然れとも、私自分家業の世話方も届き兼ねその
 上、実子幸蔵もこれ有る儀ゆえ、再三辞退
 仕り候へとも、右譲り置き候儀は、格別の内存これ有る
 儀ゆえ、何分請け相いくれ候様、達て相頼み候に付き私
 譲り請け候儀に御座候処、藤左衛門より家督押
 領仕り候などと申上げ候段、不法千万成り申す方に
 御座候

3枚目(全4枚の内)[編集]

P1030207.JPG

尤譲証文無之引請世話仕候ハヽ
右体申上候筋も可有御坐哉ニ候得とも元祖
ゟ之血筋其後段々重縁其上譲証文
を以無拠世話仕何卒久左衛門実子弁治江
少しも早ク家督引渡申度彼是心配仕候
処藤左衛門ゟ不存寄御訴訟奉驚入候右
                組     
西田屋私間柄之儀代々致親敷縁合取組候
儀ハ藤左衛門いまた松浦屋ヘ不入込内ニ御座候へ者
一向不存儀ニ御座候へとも其後私娘幸蔵妻ニ
遣シ候節ハ藤左衛門儀松浦屋相続仕罷在候間
右体下代筋を改候ハヽ其節ニ而茂藤左衛門存寄
可申出筈猶更譲り証文渡候節ハ縦他出
仕候とも罷帰り候ハゝ早速西田屋成行を尋
幸蔵存命之内彼是可申出儀ニ候得とも
幸蔵存命之内ニ而者譲り証文謀書謀計


尤も譲証文これ無く引き請け世話仕り候はば、
右体申し上げ候筋も御坐有るべきやに候えども、元祖
よりの血筋、その後段々重縁、その上譲り証文
を以て拠無く世話仕り、何とぞ久左衛門実子弁治へ
少しも早く家督引き渡し申したく彼これ心配仕り候
処、藤左衛門より存じ寄らざる御訴訟驚き入り奉り候、右
西田屋私間柄の儀、代々親しく致し縁合取組候儀は、
藤左衛門、未だ松浦屋へ入り込まざる内に御座候へば、
一向存ぜざる儀に御座候へども、その後、私娘幸蔵妻に
遣わし候節は、藤左衛門儀松浦屋相続仕り罷り在り候間、
右体下代筋を改め候はば、その節にても、藤左衛門存じ寄り
申し出ずべき筈 猶お更譲り証文渡し候節は、縦い他出
仕り候とも罷り帰り候はば、早速西田屋成り行きを尋ね
幸蔵存命の内かれこれ申し出ずべき儀に候えとも
幸蔵存命の内にては譲り証文謀書謀計

4枚目(全4枚の内)[編集]

P1030209.JPG

 なとゝ申我侭之難渋難申五年以来捨置候
 儀と奉存候 
 などと申す、我侭の難渋申し難く、五年以来捨て置き候
 儀と存じ奉り候

現代語訳[編集]

    御吟味にあたって申し上げる書付
一、浜田領渡里村松浦屋藤左衛門がこの度願い出た際に、
 「私幾六の碑の銘に、大貫村西田屋金九郎に
 仕ると記してある上は、下代筋に相違無い」という旨を
 藤左衛門が申し、碑の銘の写を差し出したようです。それを私へ
 お見せになりお聞ききになるには、「十二才より三十九才まで
 金九郎に仕る」とあるので、下代に相違無いにもかかわらず、
 下代にでは無いという旨を、私がこれまで申し上げたことは、
 不埒だという旨の御吟味にございます。

このことについてはこの間のお答えにも申しました通りえす。
大貫村西田屋の元祖久左衛門の娘でまんというものがいますが、
当御料小谷村五右衛門という者と結婚しました。子供は四人生まれました。
このうち惣領源右衛門というものが、父である五右衛門の家を相続しました。
そして、浜田御領渡里村松浦屋庄左衛門の娘を妻とし、子供は六人産まれました。
  長男の忠治郎は親の源右衛門の家を相続致し、二男は私の父で幾六と申しますが、
  世参見習いのために大貫村の西田屋金九郎方へ遣わされ、世話になりましたが、
  その後、浜原村に住居しそこで亡くなりました。そこで、父幾六の一生の成り行き
  を記した碑の銘に、暫く西田屋に入り込み居るうちのことを養子ともいえないので、
  金九郎に仕えていたと記したので、下代と申す事ではございません。

 もっとも、このことは、私の方で争点にしたいというわけではありません。
 たとえ、父幾六が入り込んで世話をしていたのを下代という名目であっても、
 元祖よりの血筋に紛らわしい点はありません。
 この縁をもって、大貫村西田屋七代目助五郎の指図により、私の妹を久左衛門の妻に遣わし
 その後また、親類たちが取り持って、久左衛門の妹が私の妻になりました。
 また、幸蔵の妻には私の娘みねを久左衛門の遺言により遣わしましたが、段々重縁になってきたので、
 久左衛門から西田屋一式を私へ譲り置くということになりました。
ただし、譲り証文が無いまま世話を引き請けていれば、その主張が成り立つのかもしれませんが、
しかし元祖から血筋がつながっていて、その後何回も血縁関係を重ねており、
その上譲り証文もあって仕方なく家督の世話をすることになったのでございます。
なんとか久左衛門の実子である弁治に、少しでも早く家督を引き渡したいと思っていていろいろ心配をしていたところ、
藤左衛門から思いもよらないお訴えがあり、大変驚いているところでございます。

右に述べてきた、西田屋と私の間柄についてですが、代々親しく縁組をしてきていることは、
藤左衛門がまだ松浦屋へ入っていないときの話ですので、藤左衛門が全く知らないということはあるでしょう。
しかし、その後、私の娘を幸蔵の妻として嫁がせたときは、
藤左衛門はすでに松浦屋を相続していたので(私の家が)下代筋に当たるかどうかについて調査をしたならば、
その際にも、藤左衛門は自分の考えを申し出るべきであった。

 その上、譲り証文を渡したときには、たとえ他の村に出ていたとしても
 帰ってきたのならば、早速西田屋に成り行きを尋ね、
 幸蔵が生きている間にいろいろ異議申し立てするべきでしたが、
 幸蔵が生きている間においては、譲り証文が事実を曲げて書かれている
 などととやかく言うことができず、五年以来なにか言うことをしなかった
 ということでございます。

脚註[編集]


コメント[編集]

<comments hideform="false" /> トーク:浜田領渡利村書付2