川本村と因原村の訴訟2

提供:桜江古文書を現代に活かす会
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目録番号:ゆ406

担当:島根大学法文学部社会文化学科歴史と考古コース古文書ゼミ


文書画像と釈文、書き下し文[編集]

1枚目(全18枚の内)[編集]

ゆ406-1.JPG

乍恐以書付奉申上候
               山
一此度御料川本村より浜田領因原村境
 之義ニ付川本村衆中より御訴状被
 差上候ニ付返答書差上候様ニ被為仰付
 奉畏乍恐返答書奉差上候
一、川本村衆中ゟ被申上候ハ川本村之方七百
   恐れながら書き付けを以て申し上げ奉り候
一、此の度、御料川本村より、浜田領因原村山境
 の義に付き、川本村衆中より、御訴状
 差し上げられ候に付き、返答書差し上げ候様に仰せ付けさせられ、
 畏み奉り、恐れながら返答書差し上げ奉り候
一、川本村衆中より申し上げられ候は、川本村の方七百

2枚目(全18枚の内)[編集]

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  六拾九石余山稼第一之村方ニ御座候処村
 山続惣名犬か谷山之内あや平中倉
 釜かやのそね夫ゟ一ノ丸二ノ丸青松
 鋳物師釜之谷と申名所御座候因原村と
  山境之義ハ左右谷合馬橋川境西ハ
 字飛渡リ双方田畑境より日向山そね
 通り峯より裾大歳迄夫より南江引廻し
 右キ川迄山上ハ東南より落合之谷川
 夫より間ノそね札ノそね峯境御料
  八色石村迄境筋通り有之右境より
  西南ハ浜田領因原村井原村東北
  御料川本村与相分境分明ニ御座候と
  書付被申上候
   此儀相違仕候御料川本村因原村
    境之義ハ江川端みそ谷下モ之
    木屋元峯境ニて夫より飛渡ノ田代口


  六拾九石余り山稼ぎ第一の村方に御座候所、村
  山続き惣名犬か谷山の内、あや平、中倉、
  釜かやのそね、夫れより、一ノ丸、二ノ丸、青松、
  鋳物師釜の谷と申す名所御座候、因原村と
  山境の義は、左右谷合馬橋川境、西は
  字飛渡り、双方田畑境より日向山曽根
  通り峯より裾大歳まで、それより南へ引き回し
  右ぎ川まで、山上は東南より落合え谷川、
  それより間のそね札の曽根峯境、御料
   八色石村迄境筋通りこれ有り、右境より
   西南は浜田領因原村井原村、東北、
   御料川本村と相分かり、境分明に御座候と
   書き付け申し上げられ候
     此の儀、相違仕り候、御料川本村因原村
     境の義は江の川端みそ谷下もの
   木屋元峯境にて、夫れより飛渡の田代口

3枚目(全18枚の内)[編集]

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   日向山空山かす峠大まき平穴
   小鉄場之そら一二丸より八色石村迄
   山峰分ケ水流境ニて東北ハ御料
   川本村西南ハ浜田領因原村と相分リ
   前々ゟ大峯水流限作配仕来申候
   因原村挽谷山之義ハ山役銀壱ヶ年ニ
   銀百三匁弐分五厘上納仕来申候
   尤此山内ニ高七石九斗七升六合前
   御先代松平周防守様御役人中
   様より被下置候御水帳面等明白ニ
   御座候山峯より西南ニ犬ヶ谷と
   申名所無御座候
 一 川本村より被申上 候ハ山役銀弐百三拾四匁四厘
    上納仕殊ニ犬ヶ谷内ニハ畑高九升前之御縄
    請百姓弐人住処仕候所猪鹿夥敷
    其上宝永四亥三月野火其後


   日向山空山かす峠大まき平穴
  小鉄場のそら一二丸より八色石村迄
  山峯分け水流境にて、東北は御料
   川本村西南は浜田領因原村と相分り
   前々より大峯水流限り作配仕り来たり申し候。
   因原村挽谷山の義は山役銀壱か年に
   銀百三匁弐分五厘上納仕り来たり申し候。
   尤も此の山内に高七石九斗七升六合前
   御先代松平周防守様御役人中
   様より下し置かれ候御水帳面等明白に
   御座候、山峯より西南ニ犬ヶ谷と
   申す名所御座なく候
 一、川本村より申し上げられ候は、山役銀弐百三拾四匁四厘
    上納仕り、殊に、犬ヶ谷内には畑高九升前之御縄
     請百姓弐人住処仕候所、猪鹿夥しく、
     その上、宝永四亥三月野火その後

4枚目(全18枚の内)[編集]

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風雨ニ而大石等落下ニ付住居難成
翌子ノ年右山処村之平年寄
重郎兵衛持山江引越当時善四郎
長右衛門太郎兵衛七三郎四郎兵衛五軒住処
仕候依之右畑荒地ニ罷成候得共御
年貢高役弁納仕来申候と被申上候
  此儀相違仕候前書ニ申上候通り山
  峯分水流限因原村内ニ而山役
  并ニ高壱石九斗七升六合前相籠申候

風雨にて大石など落下につき住居なり難く、
翌子の年右山処村の平年寄り
重郎兵衛持山へ引っ越し、当時善四郎
長右衛門太郎兵衛七三郎四郎兵衛、五軒住処
仕りそうろう。これにより右畑荒地にまかり成りそうらえども、
お年貢高役弁納仕り来り申しそうろう、と申し上げられそうろう。
  この儀相違仕りそうろう、前書に申し上げそうろう通り、
  山峯分け水流限り、因原村内にて、山役
  并に高一石九斗七升六合前相籠り申しそうろう。

5枚目(全18枚の内)[編集]

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此儀相違仕候一ノ丸二ノ丸山峯より
八色石村迄山峯分ケニて東北ハ川本村
鋳物師山西南ハ因原村菅ノ谷字
青松と申候古田大膳太夫様始メ
松平周防守様御代々当御代も
山御役銀壱ケ年ニ百四拾目宛
上納仕立木之度々炭焼鈩ニ吹
来リ申候所紛無御座候既ニ宝暦
此の儀相違仕り候一ノ丸二ノ丸山峯より
八色石村迄山峯分けにて東北は川本村
鋳物師山西南は因原村菅の谷字
青松と申し候古田大膳太夫様始め
松平周防守様御代々当御代も
山御役銀壱か年に百四拾目ずつ
上納仕り立ち木の度々炭焼鈩に吹き
来り申し候とした所紛れ御座無く候既に宝暦

6枚目(全18枚の内)[編集]

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     拾年辰年先格の通リ御地頭江
     鑪起之御願申上同未年迄
     鈩ニ吹山峰迄伐リ取申候得共
     何之差触茂所無御座候於只今二
     川本村山と被申上殊二去ニ年川本村
     衆中より濱田表江訴詔被差出候節
     茂為何儀茂不被申上此度川本村
     鋳物師山抔と御訴詔被申上候
     儀度々殊ヲ替願出被申候儀奉
     驚入候夫二付菅ノ谷青松山持主
     井原村和左衛門より茂参府仕候
 一川本村より被申上候ハ犬ヶ谷横手道之上ハ
   年々炭薪等仕作配仕来リ相違
   無御座候殊ニ右論内横手道ノ下境
   岸場所先年相手方より争論申掛
   候得共前書申上候通境分明私共


     十年辰年先格の通り御地頭へ
     鑪起こしの御願い申し上げ同未年迄
     鈩に吹く山峰迄伐り取り申しそうらえども
     何の差し触りも所無く御座候。於いて只今に
     川本村山と申し上げられ殊に去二年川本村
     衆中より浜田表へ訴詔差し出され候節
     も何為る儀も申し上げられず、此度川本村
     鋳物師山などと御訴詔申し上げられ候。
     儀度々殊を替え願い出申され候。儀奉り
     驚き入り候。夫れに付き菅の谷青松持主
     井原村和左衛門よりも参府仕り候。
一、川本村より申し上げられそうろうは、犬ヶ谷横手道の上は
  年々炭薪など仕り作配仕り来たり相違
  御座無くそうろう、殊に右論内、横手道の下境
  岸場所、先年相手方より争論申し掛け
  そうらえども、前書に申し上げそうろう通り、境分明私ども

7枚目(全18枚の内)[編集]

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御年貢地之訳ヶ申立候得者相手方ニ而も
右得心致差障無之弥川より北ハ川本村
地内相決稼仕来罷在候抔与被申上候
  此儀相違仕候横手より上下共因原村
  挽谷山内ニて前書申上候通り運上銀
  并ニ御年貢地御帳面有之
  生木之度々挽谷鈩江炭焼取り
  鑪ニ吹作配仕来候儀相違無御座候
  勿論此場所及争論申候儀及承
  不申候
御年貢地の訳け申し立てそうらえば、相手方にても
右得心致し、差し障りこれ無く、いよいよ川より北は川本村
地内に相決し、稼ぎ仕り来たり罷り在りそうろう、などと申し上げられそうろう
  此の儀相違仕り候 横手より上下共に因原村
  挽谷山内にて前書き申し上げ候通り、御運上銀
  并に御年貢地御帳面等之有り
  生木の度々挽谷鈩へ炭焼き取り
  鑪に吹き作配仕り来たり候儀、相違御座無く候
  勿論此の場所及び争論申し候儀承り及び
  申さず候

8枚目(全18枚の内)[編集]

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9枚目(全18枚の内)[編集]

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10枚目(全18枚の内)[編集]

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11枚目(全18枚の内)[編集]

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12枚目(全18枚の内)[編集]

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13枚目(全18枚の内)[編集]

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14枚目(全18枚の内)[編集]

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15枚目(全18枚の内)[編集]

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16枚目(全18枚の内)[編集]

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17枚目(全18枚の内)[編集]

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18枚目(全18枚の内)[編集]

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現代語訳[編集]

恐れながら書き付けを以って申し上げます
一、この度、幕府領川本村の方から、浜田領因原村との山境のことについて、因原村を相手としてご訴えが提出されました。
それに対し、反論を書いた返答書を作成せよと仰せ付けられましたので、敬ってこれを了承し、恐れながら返答書を差し上げるものでございます。 
一、川本村の人々より申し上げられたのは次のような内容です。川本村の石高は七百
六拾九石余りで、山稼ぎが第一の村でございますが、
村の山に続く、総称が犬か谷という山の中に、あや平、中倉、
釜かやのそね、そして一ノ丸、二ノ丸、青松、
鋳物師釜の谷と申す名前の場所がございます。因原村と
因原村との山の境界につきましては以下のようになっております。
左右の谷合は馬橋川が境、西は字飛渡り、双方田畑境より日向山曽根を通り、
峯より裾は大歳まで。それより南へ引き回し右の川まで。山上は東南より落合の谷川、
それより間の曽根札の曽根峯境。御料八色石村まで境の筋が通っています。右に記してある境より西南は、
浜田領因原村、井原村、東北は、幕府領川本村のものと分かれており、境がはっきりございますということが書き付けで申し上げられております。
この件につきましては間違っております。
   幕府領川本村と因原村(川本村と因原村の)境の件につきましては以下のようになっております。
  江の川の端みそ谷の下もの木屋の元、峯境においてその場所より飛渡の田代口
   日向山空山かす峠(かすだわ)大まき平穴小鉄場(こがねば)のそら一二丸より八色石村まで、
   山峯を分け水流を境にして東北は御料水流境の東北は)川本村で、西南は浜田領因原村と分かれ、
    以前から大峯の水流を限りにして管理して来ています。
    因原村の挽谷山については山役銀として一年に銀百三匁弐分五厘を上納してきています。
    ただし、この山の内に石高七石九斗七升六合の御先代松平周防守様御役人中様より下された検地帳などで明らかで御座います。
    山峯より西南に犬ヶ谷という名前の所はありません。
 一、川本村の百姓達は次のように言っておられます。、山役銀弐百三  十四匁四厘を川本村の方が負担しております。
特に犬ヶ谷内には畑高九升分の年貢を負担している百姓二人が 住んでおりましたが、猪鹿がものすごく多く、
その上、宝永四年亥の三月に野火、その後風雨のため大石が落下し住むことができなくなりました。
翌子の年、右山の場所を、平らなところにある年寄り重郎兵衛の持ち山に引っ越し、
現在は、善四郎、長右衛門、太郎兵衛、七三郎、四郎兵衛の五軒が住んでいます。
このような事情で畑は荒れ地になりましたが、お年貢高役は納めてきました、と申しておられます。
この川本村の言い分は間違っています。前書に申し上げた通り、因原村との境は、山は峯で分け、水流を限りとしています。
また、山役を負担し、高壱石九斗七升六合と石高が設定されている土地はこの山に含まれています。
この言い分は間違っています。一ノ丸二ノ丸は山峯より八色石村まで山峯を分け、
東北は川本村、鋳物師山、西南は因原村、菅ノ谷、字青松としております。
古田大膳太夫様を始め、松平周防守様から代々、現在の代も山御役銀を一年に百四拾目ずつ上納し、
立ち木の度に炭焼きを鈩に吹きに来ると申すのは、少しも間違いないのでございます。
既に宝暦十年辰年には以前の通り御地頭様から
たたら起こしのお願いと申し上げ、未年まで
炭を入れて鈩を吹く山峰まで切り取ったけれども
何の紛争も起こりませんでした。それが現在においては
川本村の山だとおっしゃられて急に去年川本村山の
人々から浜田藩領主に訴詔を差し出された節は私たちに
何ということも申し上げず、此度は川本村の
鋳物師山などと訴詔申し上げられております。
度々願い出を替えておっしゃられており、
我々も驚いております。それに付き、菅の谷青松山の持ち主は
井原村の和左衛門なので参府しておきます。
一、川本村は、「犬ヶ谷横手道の上は毎年炭や薪などを作って管理してきた場所に相違ありません。
特に右の争論の中で、横手道の下の境の岸がある場所は、先年相手方より争論を申し掛けられましたが、
前書に申し上げた通り、境は明らかに私たちが年貢を納めている場所だと訳を申し立てましたら、
相手方も右のことを得心致しまして、差し障りは無く、
いよいよ川より北は川本村の地内と決し、稼ぎをしてまいりました」などと申しています。
川本村のこの主張は間違っております。横手より上下ともに因原村の挽谷山の内であって、
前書きで申し上げました通り、御運上銀並びに年貢を納めている土地やその検地帳が存在します。
生木はことごとく挽谷鈩へ譲渡され、炭を焼き、それを取って鑪を吹いて、管理してきましたことは、間違いがございません。
もちろんこの場所及び川本村の主張は承るには及びません。







   

脚註[編集]


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