‘郷蔵普請はじめの第一歩’ カテゴリーのアーカイブ

「郷蔵普請はじめの第1歩」実況中継します~

思わず裸足に・・

2012年3月5日 月曜日

2012年3月4日(日) 小雨降る中の土練り3回目。梅の花がまだつぼみの肌寒い中でしたが、粘る泥に足を取られて、長靴を脱いで素足で土練りを始めた男子もいました。泥の硬さは、マヨネーズまたは、福耳の耳たぶくらいに。わらは5~6センチに切ったものをたっぷり混ぜ込みました。2回目の土練りの時も雨でしたが、土練りには水がたっぷり必要なので、恵みの雨でしょうか。

土壁塗りの直前にも土を練りますが、事前に練って寝かしておくことで、ひび割れを防ぐことができます。

切ったわらをこんりと載せて、水をかけながら、鍬で寝かした土をほぐします。次に耕運機も使ってわらをしっかり混ぜ込んで、水をどんどん入れて、ずぶずぶの硬さにします。後はみんなで踏んで良く混ぜます。杖を使うと、踏み込んだ足をようやく抜くことができます。「股関節の体操!」と、踏み込みに励むHさんの姿も。

がんばって働いた後のお昼ご飯。アユご飯とツガニ汁、いろいろお野菜の煮物をいただきました。アメリカ人のジェナさんもおいしい笑顔!ご飯の後にみんなで記念撮影をしました。

2012年 研修会で始まり

2012年1月20日 金曜日

お正月、雪の上に書いた2012年。

新しい年が始まる。

郷蔵普請、活動の始まりは宿泊研修会から。

   記

 

日時:2012年1月28日(土)~29日(日)

宿泊場所:水明館(大田市羽根町)

研修内容:福光石石切り場見学、清水大師(温泉津町)見学、久手海岸珪化木観察、温泉津温泉船着き場見学など

       海の幸いっぱいの夕食会も楽しみです。

ひび割れしない壁土のために・・・

2011年9月11日 日曜日

台風12号が去った翌日9月4日、雨がまだ降り続いていました。土練りの2回目です。5月、1回目の土練りをして寝かせておいた土の山(イネが生えていました)に、郷蔵から剥ぎ取った土を篩って混ぜ込みました。わらは6センチに切って、水と一緒に練り混ぜました。1回目のわらが発酵して硫黄臭がします。わらの長さを変えること、熟成時間が違うこと、古い土と新しい土、混ざり合うことでひび割れしないしまった壁土になります。

午後からは、郷蔵の床板をはがしました。床の下にはS47年の洪水後の泥が堆積していました。

9月中旬からはいよいよ柱、梁など主要な部材の補修を行います。土台も水平に直します。次回、瓦下ろしは10月10日(月)から開始します。

「郷蔵普請」感想いろいろ

2011年3月2日 水曜日
✧裏山から掘り出した赤土を、クワで猫車(?)に乗せ、よろけながら何往復も何往復も運びました。次第に一生懸命になってきて、泥んこになるのも構っていられなくなって。
こんな経験したことがなかったです。とても充実していました。
そして素朴なお昼ごはんも、食べたことがないくらい美味しかったです。
一生懸命になった自分や、ご一緒した皆さんがとても好きになれた日でした。
✧ いつも不思議に思うことが二つあります。
一つ目は、どうしてたくさんの老若男女が地味で楽でもない仕事に喜々として集まってくるんだろ、ということ、
二つ目は、どうしてこんなに女性が元気なんだろうということです。土地柄もあるんでしょうか。
まだ明確は回答はもっていません。
自分のことをふり返ってみると、最初は郷蔵を昔のままに再建することに興味があって参加しましたが、今は、参加者と言葉を交わすようになり、みなさんと力を合わせて作業をするのが楽しみになっています。
心のこもったお昼やおやつもとてもおいしいです。
あと2年、仲間といっしょに郷蔵の竣工をお祝いできることを楽しみにしています。
✧土を滑り台みたいなものでコロコロ転がすのが楽しかった。赤土がべちょべちょしていて大変だった。けど楽しかった。(小6)
✧土掘りが楽しかった。またやりたい。(小4)
✧普段なかなかできない体験ができたことは とても貴重でした。親子で楽しくできたこともいい思い出です。
昔の人がどのような課程で蔵づくりをしたか、どのような工夫があり、どのくらい大変な作業だったか、身を持って体験することにより、昔の人はすごかったな~と畏敬の念を持ちながら、今の自分たちの暮らしぶりを振り返り、考え直すいいチャンスになりました。
✧初めて郷蔵普請の話を聞いた時、私にできるかなあ、と思いましたが、今では充実した満足感を持っています。
私の郷里である川越の郷蔵についての認識も新たになり、また関心のある人々が集まって同一目的で作業したことは、本当に素晴らしかったと思います。また、思わぬ人と巡り合って旧交を温めたり、初めての人に会ったりして、人の輪が広がりました。
思い出としては、あの暑い盛りの「赤土採取」でした。夫婦で参加しましたが、二人ともへとへとになって帰りました(年齢は争えませんね。いわゆる[もう年だなあ]と言うことです)。

木取り

2011年2月22日 火曜日

2月20日、竹割り作業を行った一方で、裏山では11月6日に伐倒したヒノキ、スギ、クリの木取りをしていました。

こちらも竹と同様に、木々は葉っぱから水分を蒸発させていました。切ったばかりのときはまっすぐだった枝が、だらりと垂れて、水分が不足している状態を表しています。葉っぱは緑ですが、製材に十分な水分量になったしるしです。棟梁がナタで打ちこんだ寸法に合わせて、製材業者さんが木を切ります。幾重にも重なり合った大木の裁断は危険を伴う、真剣勝負のプロの仕事です。

竹の枝払いと竹割り

2011年2月22日 火曜日

竹を切ったのは10月11日でした。あれから5カ月たった2011年2月20日。葉っぱからすっかり水分を蒸発させた竹の束です。

 

 

 

まっすぐな竹を選んで、2m、4m、6mに切りそろえ、雨の当たらない場所まで運搬します。

運搬した竹は、3センチ幅に割っていきます。4つ割、6つ割、8つ割の竹割り器を使います。竹の芯に竹割り器の真ん中を合わせて、木槌で叩きます。

竹割り器が竹に食いこんだら、左右の人が力を合わせて、「せーのっ」で、一気に根元まで割り込みます。竹を割るのは先からです。「木元竹末」先から割ると、まっすぐに割ることができるそうです。

割った竹の節をナタで削り取ります。それぞれの長さに束ねて、小舞に使う日まで雨の当たらない場所に保存しておきます。

棟梁のお話

2011年1月18日 火曜日

2011年新年を迎えるにあたって昨年を振り返りました。一番心に残っている棟梁のお話をご紹介します。今年本番を迎える郷蔵普請も棟梁の下なら大丈夫!次の歩みを迷いなく踏み出せます。

縁あって中村家の郷蔵普請に携わることになりました。これから完成までは3年先という長丁場ですので、自己紹介をして、私という人間をしっかり分かっていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

私は、大田市大代町で生まれ、今は祖式町に住んでいます。親は牛を飼い、半農業をしながら、木挽きをしていました。代々木挽きの家系です。 私が大工の道に入ったのは、大工になりたかったが家業を継いで木挽きになった父親の影響が大きかったことを後に知りました。私は5人兄妹でたった一人の男の子でしたので、父の期待も大きかったのではないかと思います。けれども9歳の時に、父は車の事故で亡くなりました。

私が中学校に入った時、母から「お前の道は決めてある。近くで頼んである」と言われました。何かは言ってくれませんでした。祖式町にあった宮大工「石原建築」に連れていかれて初めて自分の道を知らされました。姉も妹もみんな高校に行ったので、私も高校に行きたかったのですが、私だけは行けませんでした。

石原建築には内弟子で入りました。棟梁と寝起きを共にするような制度は私まででした。朝は4時半に起きて、夜は10時に寝ました。棟梁は田んぼもしていたし、牛も飼っていました。朝、草刈りに行くので、鎌を砥ぐように言われました。「朝草刈りをする鎌は、朝、砥がないといけない」と言われました。「なぜ、朝砥がないといけないのか?」朝は少しでも寝たいので、夜に鎌を砥いでおいたら、すごく叱られました。夜砥いでも草くらいは、切れるのですが、「その日に使う刃物は、その日に砥がないといけない」ということ、「職人になる」という精神を、最初から叩き込まれました。

当然、最初から大工仕事はさせてもらえませんでした。木、土、竹など基礎材料の準備係でした。穴を掘る、山に行って木を切る、木を出す、竹を切る、それだけです。その後は、土練り、瓦の屋根葺きの準備、小舞をかく、屋根の土を練って背負って上がる。クレーンなどはなかったので、すべて人力でした。3年間はそういったことばかりしていました。今思えば、それらを頭ではなく、体で覚えさせてもらったことは、収穫でした。土を踏めば、足の裏で加減を感じ取ることが出来る。木を切る時も、地形ごとに危なくない切り方が分かる。穴を掘るのも簡単なようで、土質によって堀り方が違うこともわかって、要領も良くなってきました。そして、3年目に呼ばれて、初めて「ガツン!」と言われました。

その時の事をよく覚えています。「何年になるか?」と聞かれました。「3年になります」と。「それなら、ちょっと削ってみろ。3年もいたら削れるだろう」でも、一度も大工道具をさわらせてもらったことがなかったので、一言も返事が出来ませんでした。そして、すごく叱られました。叱られたけれども、大工の仕事は与えてもらえず、今までと全く一緒でした。だから「本気にならないといけない。自分で覚えるしかない」と思いました。

毎晩、人が帰ってから、「今日、棟梁が墨つけをしたのは、どういうことをしたのだろうか?」、図面を見て、差し金と墨差をもって、何度もやってみました。その日分からなかったことは次の日、棟梁がやっていることをよく見て、その晩、また試す。カンナの砥ぎ、ノコの砥ぎ、目立て等全部やりました。今頃のノコは使い捨てですが、当時はノコも目立てをしました。カンナもぼろぼろになるまで、たたき方が悪かったり、刃のすり具合が悪かったり、きちんと出来るまで失敗ばかりで大変でした。今のようにグラインダーなどないので、ひたすら砥ぎこんでいく。一度刃が折れたら、2時間も3時間も砥ぎこまないといけない。カンナの砥ぎになると、何日も何日も砥ぎこんで、ようやく自分の思った切れ味が出てくる。木によっても砥ぎ方が違ってきます。特にケヤキなどの硬い木は砥ぎ方が違います。それらを夜の時間を使って覚えてきました。そして5年目には、少しは大工道具を使わせてもらうようになっていました。

5年ちょっと前に、棟梁から「手ごろな住宅があるのでやってみるか」と聞かれました。私は「やります」と言いました。たぶん聞きに来るか、「やれません」と言うと思われていたでしょうが、何も聞かずに、一人で3カ月かけて仕上げてしまいました。仕上がるちょっと前、師匠に呼ばれて「自分は教えたことはないが、おまえどこで覚えたか」と聞かれました。「ここで覚えました」と答えました。「自分で建てることができた」嬉しいというよりは、とにかく夢中でした。

それをきっかけに、次から次へと大きな家を任せてもらえるようになりました。6年目には40~50坪の家、2階建ての家など、全部、棟梁として建てました。他の職人さんは皆私より年が上で、私が一番若かったです。一番若いのが年上の人を使うということは、大変でした。私の言うことを聞いてもらえないのが現実でした。その頃があって、今日があるのではないかと思います。

一番悔しかったのは、松江市の郵便局長の家の移築を私の師匠が請け負った時です。師匠が私を連れて行って、「これに任せるから」と施主さんに言いました。「私は石原さんが自らやってくれると思って、わざわざ松江市から遠い祖式に、頼んだのに。近くにやってくれる人は掃き捨てるほどたくさんおる。何を言われるか」。目の前で論がありました。私も、「なるほどなあ、施主さんが言われるのはもっともだ」と思いました。でも師匠は、「私は他のお宮(住吉大社)をやらんといけません。彼は若いけれども、私の右腕であり大丈夫だから、まかせてやってもらえませんか」と頭を下げたので、施主さんはしぶしぶ了解し、私がやることになりました。工事は1年かかりましたが、工事が終わるまで、施主さんは私にほとんど口をきいてくれませんでした。私以外の5人の大工さんとばかり話をし、その人たちを通じて私と話をする。本当に情けない、悲しいことでした。しかし私は、「絶対に師匠に迷惑をかけてはいけない」と思って、一生懸命やりました。工事がほぼ終わりかけたころ、施主さんの家に呼ばれました。「完ぺきにやっているはずだが、なぜしかられるのだろうか?」と疑問に思いつつ行ったら、座敷に膳が用意してありました。二人向きに座らせてくれて、「今まで、大変すまなかった。よくやってくれた」と言われました。「これで、師匠に顔向けがなる」と思いました。ここまでほとんど死に物狂いでした。

師匠も、このことを大変喜んでくれました。今度は、施主さんが私を指名して1年間の仕事を任せてくれました。その時には、施主さんと私とは話し合いが出来、楽しく仕事をさせてもらいました。施主さんとコミュニケーションが取れない仕事というのは、本当に情けなく、いくら完ぺきにやっても嬉しくない、というような苦い経験もしてきております。

6年の年が明ける時、師匠から私と母親が呼ばれました。その時、母から初めて私を大工にした理由を聞きました。私が生まれた時、父が「この子は大工にする」と言ったことを知りました。父の思いが分かって、「それでは、本物になってやろう。宮大工の道に進もう」と強く思いました。5年間修業して1年間お礼奉公をして、6年目にようやく年が明けて1人役になります。これは、普通の大工さんです。それから、宮大工になっていきます。石原さんのところに通算して23年おりました。

宮大工になると、静岡~長崎の現場まで旅に出っぱなしでした。その中で、人間的にもいろいろなことを学ばせてもらって今日があります。今日もまだまだ勉強中ですが、やりたらないことがいっぱいあります。私は、五重の塔、三重の塔とお城は、まだやったことがありません。宮大工と一言で言ってもやることが多いです。6~7年かけて昔ながらの普通の住宅のやり方を覚えて、それからは宮大工のやり方を覚えます。お寺は宗派が違うとやり方が違います。御宮も大社造り、伊勢造り、住吉造り、流れ造りなど作り方がみな違います。屋根も、檜皮があり、銅板があり、瓦があり、こけら葺きがあり、みんなおさめ方が違います。鳥居も、宮島鳥居、伊勢鳥居、八幡鳥居、大社の鳥居さん、三輪鳥居などいろいろあります。

一昨年、広島駅裏の饒津(にきつ)神社の宮島式鳥居の復元工事をしました。原爆にやられて基礎石だけが残っていました。鳥居の中を大型の2階建てバスが通るくらいの大きさです。長さ8m、根元1.2m~1.3m、先の直径が60cmの自桧でしたので材料集めに3年かかりました。日本全国の森林組合さんやいろいろ声をかけて探してもらいました。大きなヒノキはあったのですが、「うちの守り神だから売れない」と言って売ってもらえませんでした。けれども、縁あって色々な方に巡り合って、実は地元大田市で手に入れることが出来ました。生えていた時のままの形で大鳥居になっているので、施主さんも喜ばれて、「良いところに使ってくれた。これで先祖も満足している」というように、逆にほめられました。そのような縁が結ばれてきて、私も本当に喜んでいるところです。

郷蔵については、私もここにこういう蔵があるということは全く知りませんでした。これを見させていただいて、話を聞いて、「私で出来ることなら、ご協力しましょう」と言って、今日来ています。さっき言いましたように、3年間という長丁場です。機会があるたびに色々な話を入れてやっていきたいと思います。

祝!現代の名工

2010年11月29日 月曜日

11月23日、この日は「郷蔵普請”わらの巻き-2”」。その前に、11月10日に厚生労働大臣から卓越した技能を持つ「現代の名工」として表彰された森下棟梁のお祝いをしました。手作りのくす玉からはお祝いの言葉と紅葉した色とりどりの葉っぱが舞い、花束と、ケーキのささやかな手作りのお祝いでした。これからの数年間、棟梁からいろいろな知恵や技術を教えていただけることが、ますます楽しみになりました。今回は、縄をするすると取りやすくする技を征雄さんから、教えてもらいました。写真のように、八の字に縄を巻き取っていくと良いそうです。棟梁からだけでなく、参加者した方々からもいろいろな知恵が結集します。「へ~、なるほど!」という出会いが必ずあります。

もうひとつはいつも楽しみなおひるごはん。今回は江の川の干しアユならではの濃いだしの利いた、素晴らしくおいしい「アユご飯」です。。混ぜ込んだ銀杏が彩と秋のおいしさを引き立てます。昔の小学校の給食用の食器が、懐かしい・・・。

「郷蔵普請」この次は、来年2月20日(日)10時から。10月に伐採した竹の枝払い、赤土篩の続きを行います。切り取った竹枝から、竹ぼうきを作ってお土産に持って帰りましょう。「竹ぼうき」づくりが今から楽しみです。

「縄ない機」は面白い

2010年11月13日 土曜日

11月11日(木)は「郷蔵普請”わら”の巻(ヒノキ手形)」。小舞編みに使う縄(目標12巻)をない、屋根瓦の下に敷くこも(目標40枚)を編みました。火炊きすずめさん達が用意してくださったお昼ごはん(シーフードカレー)もおいしかったですね。

・わらの始末・・・イネ束の先をねじって、ぐっと掴んで、切株側を地面にトントンして開き、細い葉っぱやごみを取り除きます。(簡単そうで以外にコツがいる)縄になうわらは、横槌で根元から叩いて、柔らかくします。

・こもは、2人で協力して編みます。4本の麻糸を巻きつけたコマを交互に手前に渡し、わらを編んでいきます。単純作業なのにあら不思議、いつの間にかわらが平面(こも)になります。編んだこもを下に敷くと、温かい。

・人気の縄ない機。右と左から数本ずつわらを差し込み、足で歯車を漕ぐと、くるくると縄がなわれていきます。3人の息がぴったり合うと、縄は魔法のように生み出されます。次回は、11月23日(火・祝)10:00から続きをしますよ~

縄ない機に挑戦

縄をなう手つきがキマッテマス

わらを横槌で叩く
わらを横槌で叩く

こも編み

今日は木を切る適期!

2010年11月6日 土曜日

今年、木を切る適期は11月5日~8日の間だそうです。あ~、森下棟梁に理由を聞くのを忘れていました。今度、しっかり聞いておきます。「木6竹8」木は旧暦の6月以降、竹は旧暦の8月以降に切るのが良い。と言う諺もありますね。

ともあれ、適期の今日、郷蔵の材料となる杉、栗、そして床板用にヒノキを切りました。(本当は床板には松が使ってあったのですが) 春まで枝をつけたまま、緑の葉っぱが枯れて水分がすっかり抜けるのを待ちます。100年を超える14本の木、100年間は建物を支えてくれることでしょう。

杉切株

伐倒後

伐倒後

栗伐倒

切りたてのクリの木から滴るしずく